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機能不全家庭で育った半生を振り返る。

先に断っておくと話の内容が重いです。前半は特に明るくないです。ただ、後半からはまだ希望のある話だと思っています。21年間の自分の人生を振り返ってみました。読みたい方はこの先へお進みください。それではどうぞ。


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幼稚園の年少の頃だったと思う。当時住んでいた家はオンボロだったから。なめくじが出るトイレとお風呂に毎日入っていた。とはいえそれが不思議と苦痛ではなかった。父親と壁に這っているなめくじの数を数えて笑っている記憶があった。

本当に苦痛だったのは両親が台所で金銭面の喧嘩をしているのを聞こえないように、ファミコンのレースゲームに集中しようと努めている時だった。

小学生時代。

母親には不倫相手が3人いた。家に頻繁に出入りしていたのでよく分かった。当時は朝起きたら父親は既に仕事に行っていることが多く、帰りも遅かったので、昼間家にくる不倫相手と話す時間との方が長かった。そんな状況では父親よりも不倫相手と仲良くなることの方が多かった。とはいえ、子供ながらにしてこれは「良くないこと」だと理解してもいた。それと同時に「良くないこと」を共有し、秘密にしたおかげで母親に仲間だと認識してもらえるのだと思っていた。

母さんは精神に問題を抱えていた。

母さんがしてきたことを簡潔に言えば、顔の上にのしかかり窒息する前まで呼吸ができないようにしたことや、包丁を投げつけられたことや、金属バットで殴られたことがある。幸にしてかはわからないが、恐怖で痛みを感じることは少なかった。

西原理恵子の『いけちゃんとぼく。』では「100うみでも大丈夫。」という章がある。そこでは「世界では人より早く大人にならないといけない子供っているんだよ。キミもその中の一人なんだよ。」と主人公に問いかけるシーンがあった。その章を読んで、これは僕のことを言っているのだと思った。世の中には、自分のために本を書いてくれている人がいるのだと感じた出来事だった。小学3年生だった。

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その頃にはクラスのちょっかいをかけてくる目立ちたがり屋に目をつけられて、毎日喧嘩のようなことをしていた。今では仲がいいそいつが言うには「何やっても反応ないから、逆にちょっかい出したくなった」とのことで、実際なんとも思わなかったし、なんなら暇潰しができてよかったと思っていたくらいだった。カッターナイフを持ったそいつに追いかけ回されたこともあったが、逃げることを理由に廊下を走れて楽しかった。

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4年生では、弟が生まれた。明らかに父さんとの子供ではなく、それが不倫相手との子供であることは小学生にも分かった。ただし、それを公に認めることは家庭が崩壊するということでもある。もちろん、すでに崩壊していたとも取れるわけだが、幼い頃の僕にとって、家庭が居場所であるためには離婚は避けなければならないと感じ、至る所で「父さんとの子供だよ」と言っていた。

当たり前だが、父さんは弟が自分の子供ではないことを薄々察していた。
 
両親ともまともな精神状態じゃなかったため、幼児期の弟がぐずって泣いても放置するということをしていた。僕が弟を抱っこをして泣き止ませようとすると「そんな奴ほっとけ!!泣かせとけばいいんだよ!!!」と言われた。仕方ないので弟をベビーベッドに寝かせて、先ほどと同じように放置した。同じ場所を何時間か見ていた。

 僕には妹もいて、全員で4人兄妹である。僕が長男で、4歳下の妹がいて、さらに6歳下に弟、その3歳下に妹がいる。そして全員父親が違う。厳密に言うと弟と妹は同じ父親なのだけれど(DNA鑑定済み)僕と妹、その二人の弟妹は母さん側の血しか繋がっていない。
まあだからなんだという感じではある。
僕ら兄妹にとって血のつながりはなんの意味も持たない。

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妹は小学校低学年にして、部屋の片隅で身を潜めていた。目立てば怒鳴られるからだ。
 妹がもっと小さな頃は元気はつらつな女の子という感じだったが、いつの間にか物静かな子になっていた。

 小学5年生では、学級崩壊を起こした。授業が始まっても席にもつかず後ろの方で友達と4~5人で駄弁っていた。授業はまともに進まなかったし、先生は怒った。よくある反抗期だったのだと思う。新米である担任の先生には大変迷惑をかけた。

 6年生では、妹が生まれて4人兄妹となったわけだが、両親の間を取り持つのはもうやめた。
 病院で妹の顔を初めて見た時に「こんなとこに産まれて、かわいそうな子だな、、、」とだけ思った。

その頃には両親の怒鳴り声が幻聴になって、常日頃から聴こえるようになっていた。

しかし、学校生活の方はというと、今まで仲が良かった友達がみんな同じクラスになったことと、担任の先生が理解のある人だったこともあり、楽しんでいたと思う。夕方になると一人教室に残って、先生に話を聞いてもらっていた。当時僕の話をまともに聞いてくれる人は先生だけだったから。

物思いによく耽っていたので素朴な疑問を質問したりした。「自分以外の人が見えないところでは実は動いていなくて、見えた瞬間にゲームのようにロードされて動き出すということってありうる話なんですか?」とか「我思う故に我ありって、それを知ったところで何になるんですか?」とか質問自体は捻くれてはいたが、先生はそれについて時間をとって一緒に考えてくれていた。それだけで充分だった。僕にとって、ただそこにいてくれて、話を聞いてくれるというのはどんなことよりも意味を持っていたのだ。

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性被害を受けたのはこの頃だった。日光に2日間宿泊した時だった。1日目はボロボロの宿で料理も美味しくないひどい宿だったのだけれど、二日目のホテルは白を基調とした部屋が三つもつながっており、ダブルベッドが二つもあった。「良いところだねぇ」なんて会話をしたり、一階では卓球もできたのでおばあちゃんと卓球をしたりしていた。そこでは24時まで温泉に入れるとのことだったので、僕はあえて23:30分にお風呂に入ることにした。温泉を独り占めして泳げると考えたからである。

 予想は的中して、誰も入っておらず、僕は広い温泉をぷかぷかと泳いだ。泳いだ後は水風呂に足だけ浸かって座っていた。しばらくすると、温泉扉が開くがららとした音が聞こえたので、誰か入ってきたんだなと思った。中年くらいの男性だった。

僕と目が合うとその男性は近寄ってきて、僕の隣に腰掛けた。やけに距離が近い。「君って何歳?」「11歳です。」「じゃあ来年中学生か」「そうです」と会話をしながら男性は太ももに手をかけてきたので、何かがおかしいと思った。鼻息も荒いし、段々と内側に手を入れられたので、恐怖で立ち上がって脱衣所まで駆けた。

服を急いで着ていると外の窓から男性がずっとこちらを見ていた。すぐにでもこちらに駆け寄ってくるのではないかと思って、とにかく怖かった。痴漢をされたらやり返してしまえばいいという人もいるが、本当に恐怖を感じると足がすくむし、体格差があると無力であるということが実体験になってよく分かった。

中学・高校時代

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中学1年生にして、とうとう両親は離婚した。実のことを言うと一度だけ離婚を止めたことがある。両親の離婚は僕のこれまで費やしてきた「家族を維持する努力」の否定のように感じたからだ。しかし、2回目にはとうとう諦めた。

 そのころの家族間の荒れようは異様で、互いの会話にボイスレコーダーを仕掛けて、失言を記録するという。正気の沙汰とは思えない状況だった。どちらの家族を信用するのかというポジション取りも行わなければならなかった。僕に働きかける全ての行為に意図を感じて、嘘に凝り固まった誘惑のようで、反発した。父方のおばあちゃんが作ってくれたご飯もゴミ箱に捨てた。おばあちゃんは怒っていたが、しばらくして泣いていた。

 僕と妹、弟は父さん側に引き取られ、一番下の妹は母さん側に引き取られた。その頃には母さんは精神病の診断が下りていて、まともに子供を育てられる状態ではなかったため、児童養護施設に預けられることになった。妹は現在では小学4年生になる。
 
とはいえ、そこから高校入学までは目立った事件はなかったのか、比較的平穏だったと思う。みんな母さんという厄災によって感情が死んでしまっていたからである。家は怖いくらいに静かだったし、家族間のコミュニケーションは無に等しかった。

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高校に入学してからは、美術部に入部したので、同級生のメンバーと仲良くなったが、みんなクラスに馴染めていなかった。美術部は県内でも有数のハイレベルさだったことと、同級生との熱量の差に引け目を感じていた。つまるところ、その人たちは絵がないと生きていけないタイプの人たちだったのである。一方で、僕はそこまでではない。絵は好きだけど、そこまで熱量を持って取り組めているかと思えば、そうではなかった。高校には美術部目当てに入ったので、美術が自分の進むべき道ではないことが分かると、高校に対する熱量も冷めていった。
 
そうして夏頃には高校を辞める決意をする。一度決めると早いのか、高卒認定資格を1年の夏のうちに取得してしまった。付け焼き刃の勉強だったし、物理基礎なんてほぼわかっていなかったが、過去問のパターンから推測して答えを合わせた。しかし、思っていた以上に高校を辞めることは難しく、担任の先生との話し合いは難航した。よくよく考えれば不登校になればいいのだが、ちゃんと毎朝通って放課後に話し合いをしているあたり、僕は高校中退者の中では優等生なのではないかと思った。とはいえ、毎回はぐらかされているうちに高校も2年生になってしまった。担任の先生は僕に目をかけてくれたので、2年になっても同じクラスにするよう計ってくれたが、高校でできた少ない友達には「なんで学校来てるんー笑」と若干ばかにされた。まあそんな反応も、受け止めてくれたということでしょう。

 そうして、高校生のメインイベントである修学旅行が来てしまった。僕はもちろん行きたくなかったが、いつの間にか行くことが決まっており、沖縄まで飛行機に乗ることになった。修学旅行では班に分かれて行動するということになっていたが、僕は別の班の仲が良い友達と二人で首里城を回っていた。金を出すのをケチって中には入らず、周囲の庭園を散歩していた。首里城の庭園から見える沖縄の景色は、豆粒状の建物が地面に張り付いていて、僕の記憶にある東南アジアの風景となぜだか一致した。
そうしてバスに乗り込み、一番後ろの端っこの席を陣取ると、僕は今まで聞いたことのないアルバムをスマホで再生した。

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 ここで説明を入れておくと、僕は中学3年生の頃から洋楽の名盤と呼ばれるアルバムを蔦屋で週5枚借りるということを二年間行っていた。それも1960年代から少しずつ年代を遡って借りるということをしていたのだった。チャックベリーやエルヴィス・プレスリー、ビートルズに始まり、60年代後半のクリームやジミ・ヘンドリックスのサイケロック。70年代のツェッペリンやデヴィッド・ボウイ、セックス・ピストルズ。80年代のAC /DC やザ・スミス、U2やストーン・ローゼズ。第3の黄金期である90年代のオアシス、ニルヴァーナ、レディオ・ヘッド、ザ・ヴァーブなど、有名どころの名盤を片っ端から借りては聴いていくということを続けていた。色鮮やかなCDジャケットの棚を眺めるだけで幸せだったし、一つずつ制覇していく楽しさはマニアのようなものだった。もちろん、お金はかかったが、中学生では溜めていたお小遣いを使い、高校生では毎週の学食代を全て洋楽に費やしていた。

そうして、高校2年生の半ばにはついに2000年代の棚まできたのであった。2000年代のロックと言えば、ガレージ・ロック・リバイバルを抜きにして語ることはできない。ザ・ストロークスの『Is This It?』とザ・ホワイト・ストライプスの『エレファント』と共に幕を開けたガレージ・ロック・リバイバルは僕の生まれた頃の音楽ということもあって、親近感が湧いていた。当時は他にもフランツ・フェルディナンドも聴いていて、学校を辞めたくなった時は『Take Me Out』とリンキンパークの『Don’t Stay』を聴いていた。

 そうして再生したアルバムのタイトルの名前はザ・リバティーンズの『Up The Bracket』日本語で言えば、「一髪かます」という意味である。もちろん当時はそんなことも知らずに、今週のノルマとしてアルバムを再生したに過ぎなかったのだが、、、

 一言で言えば衝撃である。リズム感はぐちゃぐちゃ、ボーカルはヘニャヘニャ、それなのにロックの衝動のままに心臓を突き抜いたようなギターの音がそこにはあった。なんだこれ、なんなんだこれは。ワクワクして沖縄の景色をBGMにリバティーンズのアルバムを聞いていた。そうして、アルバムが終わる頃にはリードボーカルの二人である、ピート・ドハーティとカール・バラーのウィキペディアを読み漁っていた。読み終わる頃には謎のエネルギーがあったのかふと「学校を辞めよう。今度こそちゃんと」と確信していたのであった。

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沖縄帰りの飛行機では、当時仲の良かった友達と人工知能について話をしていた。
「仮に仮想型の人工知能世界に入ることができるとして、それがあまりに完璧だったとしたら現実世界に帰ってこようと思うのかな?」
「完璧すぎたら退屈で飽きちゃうんじゃない?」
「むしろ逆で、完璧ってことは適度に障害があることだと思うんだよね。ゲームだって、ちょうど良い難易度だからこそ刺激があって面白いわけで、現実のように理不尽なゲームバランスじゃない。だとしたら、人工知能はその人にあった興味や難易度に合った刺激を与えてくれるんじゃないかな?」
「そうだとしたら、現実世界の誰とも関わらなくなる未来が来るってことだよね」
「まあ、そうだね。どこの誰と関わるより理解してくれる「人」が仮想世界にはいるわけだから」
「でも、それってさ、悲しくない?」

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修学旅行が終わってから、僕は担任の先生に何度目かの「学校辞めます」宣言をした。今度ばかりは折れずに最後まで話を通すことができた。といっても一週間ほど毎日放課後に話し合いをしたし、辞めてどうするのかも聞かれた。僕は大学に進学がしたかった。東大か京大に行こうかと当時は考えていたので(謎の自信があった)、そのための勉強計画についてのダメ出しもされた。半ば人格否定レベルのことも言われたが、担任の先生のことを僕は何だかんだ信頼していたので、ひとつひとつの話を自分なりに受け止めていた。
 そうして、2年の終わり頃に高校生活を一足早く終えることになった。

勉強期

その後志望先を京都大学に絞って勉強していたのだが、今まで予備校はおろか塾も行ったことのない17の人間が1から勉強をして、計画通りにいくわけが無く、ただただ悪戦苦闘の毎日だった。家にいると勉強が捗らないことが分かったので、近くにあった国立女性教育会館(通称ヌエック)に毎日通っては少しずつ勉強を進めていった。勉強することそのものは苦痛ではなかった。それどころか楽しささえあった。自分の好きな時間に好きなように勉強ができるという楽しさは、高校を辞めていなかったら味わえなかった感覚だろう。

 毎日朝から来ているからか、清掃のおばちゃんたちにも気に入られて、ちょくちょく話しかけてもらった。時には差し入れでお菓子や飲み物をもらうこともあった。ちょっとした厚意が嬉しかった。

 当時の浪人生とも、高校生ともつかない頃には、カニエ・ウェストの『カレッジ・ドロップアウト』を愛聴していた。現在のカニエはあれだが、オールドカニエと呼ばれる初期3アルバムはいずれも名盤で、80~90年代のクラシックなビートを感じることができる。発表されたのは2000年代なのにすでにノスタルジック。歌詞も暴力的なものや過剰に性的なものもないし、ヒップホップミュージックの中では優等生といったもので。一番好きな曲はカニエのデビュー曲でもある『Through The Wire』だった。

”And he explained the story 'bout how Blacks came from glory
それと、どうすれば黒人が栄光を掴めるか説明するのさ
And what we need to do in the game
そこまで行くには、何が必要なのかをね
Good dude, bad night, right place, wrong time
いいヤツだけど、ツイてなくて・・・
場所は良かったけど、タイミングがマズかった・・・
In the blink of a eye, his whole life changed
その後は、一瞬で人生が変わっちまったよ・・・”

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しかし、というか当たり前といっては当たり前だが受験勉強は上手く進まず、最難関の国立大を目指すには心もとないまま大学受験を迎えることになった。そうして当たり前のように落ちた。悲しみというよりはただただ疲れたという感じだった。
 
浪人一年目である4月と5月にはなんもしなかったし、大学に行かなくても良いやとすら考えていた。いろんな人たちから、せっかく真面目に勉強したんだから、浪人した方がいい、もったいないと言われたのだが、そう言われることにもまた疲れていた。
 
・・・この時期のことを振り返ると、自分の部屋から見える空の景色を思い出す。暗い部屋から縁取られた空模様はあまりにゆっくりと動いていて、壁紙のようだった。実はこの世界は狭い部屋で、だんだんと空が落ちてきて、いつか押しつぶされるのではないかとよく考えていた。外の明るさ、太陽の明るさの遠さが苦しかったし、夜の暗さと月明かりの近さに安心していた。

 そんなことを考えながら、僕は野島伸司監督の『世紀末の詩』のあるセリフを思い出していた。
”太陽は明るくて、いつも事実をみんなの前にはっきりと見せてくれるかもしれない
だけど、暗闇はそっと真実を置いていくの
みんなが怖がるのは、真実を見るのが怖いからよ”

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友達を誘って6月から群馬県のいちご農家で住み込みのバイトをしていた。そこでは、朝になってビニールハウスのイチゴを収穫して、午後からは別のハウスでパック詰めをおこなったり、近くにあるテラスでイチゴを使ったデザートやジュースなどを販売していた。住み込みと言っても最初だからか午後3時くらいには終わるので、その後は図書館から借りてきた本を読んで1日を過ごしていた。

今にして振り返っても結構充実した毎日だった。夜にはバーベキューをしたり、そこの社長さんが川を下るスポーツであるラフティングの事業もしているからか、僕にもラフティングを体験させてくれた。

1ヶ月経った頃、宿を経営しているおじさんを紹介してもらったので、僕はてっきりそこで働くのだと思っていた。しかし、僕が大学受験の経緯などを話してここに至ることを伝えると「うちには置けないし、あんたは大学に行ったほうがいい」「とにかくここには置けないから帰ってくれ」と言われてしまった。仕方がないので、一回実家に帰り、その後母方のおばあちゃんちに転がり込むことにした。

月日はすでに7月だった。
大学に行くべきかどうかはいまだに分からなかった。

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夜になって、高校時代の友達に通話してみることにした。首里城で庭園を回った友達である。今後のことを相談してみようと思ったのだった。
「・・・というわけなんだけどさ、大学に行くべきなのかな?」
「なるほどね、うーーん、、、、
 ・・・よくわかんないけどさ、アラカワは大学に行ってもなんか面白いことやるし、大学入って辞めたら辞めたで面白いから行った方がいいよ」

と言われた。・・・こんな雑なコメントがあるだろうか。しかし、雑だからこそ信頼されているようで、肩の力が抜ける感覚があった。
「ありがとう。ちょっともっかいがんばってみるよ」

そこからは、進学先を選び直す作業から始めた。今から国公立は無理だし、私立の中でも英語重視の学部が良いと考えて、第一志望を慶応大学の総合政策学部と環境情報学部に絞った。一度過去問を解いてみると、割と去年の勉強の貯金があったのかそこまで難しくはなかった。

実家にはいられる雰囲気ではなかったので、おばあちゃんちにしばらく身をおいてもらうことになったが、おばあちゃんちも余裕があるわけではない、精神病の母さんのこともあるし、一番下の妹の施設費用も払わなければならない。それを60代後半でトラック運転手であるおじいちゃんの稼ぎ一つで賄うのは無理があった。おじいちゃんは午前2~3時には起床して、会社に出勤している。帰ってくるのは午後の3時以降で週5~6日働いている。それでも給料は高くはない。身体労働者というのは得てして給料が低いものだからだ。

 当時のおじいちゃんとおばあちゃんは毎日のように喧嘩をしていた。喧嘩の内容はやはり金銭面のことだった。

 ・・・おばあちゃんちからは自転車で行ける範囲で勉強に使える公共施設が3つあった。1つは公民館で残りの2つは図書館だった。朝は公民館で過去問を解いて答え合わせをし、お昼ご飯を食べてから空いている方の図書館へ行き、閉館まで勉強して帰るというルーティンを行なっていた。それを受験当日まで毎日続けた。

・・・
 そうして大学受験を終えたのが2月のことだった。結果としては両学部とも受かっていた。
 
この話をすると努力ができてすごいね、なんて言われるが僕はすごくない。これは謙遜ではなく、本当にすごくない。
僕は運が良かっただけで、努力ができる環境にたまたま身を置いていただけなのだ。人は努力をするのにも環境が必要で、才能は環境が与えられなければただただ腐らせるということを、僕はこの目でたくさん見てきたし、むしろそれが「普通」なのだということも分かっていた。

そんな中で、僕は勉強できる時間に恵まれ、勉強をさせてくれる場所があり、また勉強を応援してくれる人がいただけに過ぎなかった。そんなことは自分の力ではどうすることもできなかった。

僕の成功を僕の個人的な努力、才能に回収することは、一方で自分と同じような境遇でもがき苦しみ失敗した数えきれない多くの人たちに「自己責任」の烙印を押し付けるということになる。成功が個人の努力によって叶えられるなら、世の中の格差や貧困はもっと是正されているはずだ。

だから僕は努力という言葉も、自己責任という言葉も認めたくないし、認めない。

これ以上に悪い結果なんて、いくらでも起こりえたのだと今なら分かる。努力なんて大したことではない。環境と運。それが大学受験から学んだ1番の教訓だった。

 ・・・大学に入ってからは、特に自分達は努力をしたかのように誇る人たちが多かったが、実家の太さと経歴を聞くに、努力と環境を履き違えている人が多い印象だった。この人たちには何を言っても通じないんだろうなと話すことを諦めた。

 また受験を終えて、実家に帰ると金銭面のことで家庭が1年半荒れるようになった。結果として、妹が大学進学できる余裕はなくなった。 


大学生時代〜現在

大学に入ってからは英語を勉強しようと思い。特に読むこと、書くことはできても、話すことはできていないと感じたので、英語圏の友達を作ろうと考えた。そこでフェイスブックを使って、とにかくコミュニティに参加し、その中で仲良くなれそうな人から片っ端からアプローチをすることにした。大体はスルーされたが、たまに返してくれる人もいて、ビデオ通話をする人も何人かできた。

とある医療従事者の男性ともそこで仲良くなった。アメリカのフロリダ州に住んでいるらしいその人は返信も早く、会話も弾むし良い人だろうと考えていた。飼っている犬の写真と自分の写真も送ってくれた。せっかくだし話したいと伝えると(会話のために始めたフェイスブックだったので)、「いいよー」とのことだったので、ビデオ通話をちょくちょくすることになった。

しかし、ビデオ通話を重ねるごとにその人が服を脱いで話し始めることが多くなった。今シャワー浴びた後だからとか、寝起きだからとか色々な理由を重ねていたが、ある時「良かったら、君もシャツを脱ぎなよ」「君の裸が見たい」と言われたので「いや、僕は遠慮しときます」とだけ伝えた。

その後も数十分と通話をしていたのだが、最初に言われた一言のせいで会話の内容が頭に入ってこなかった。その後はなんとなく気まずくなり、やりとりもしなくなり、次第にはフェイスブックからも距離を置いた。

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 触れてこなかったが、これまで何人かの人と付き合うこともあった。パンセクシャルを自覚しているものの、同じような価値観の男性とは知り合わなかったので、結果として付き合ったのは女性のみということになる。とはいえ、僕は恋愛というものを理解していなかったし、今でも頭では理解していても、身体的な感覚としては理解していない。
 
いやいや、結局付き合ってるじゃないかと言われてしまえばそうなのだが、実際誰とも付き合いたいと思ったことはないし、恋愛したいと思ったことすらない。ただ、仲が良い人がいて、関係性として付き合うことを相手が望んでいると推測した時に、付き合ってみるということをしてきた。

 ・・・当たり前だが、これは良くなかった。僕は恋愛にまつわるあらゆる儀式が苦手だったからだ、まず恋人として手を繋ぐのに耐えられなかった。外で手を繋ぐだなんてもっと考えられなかった。また、彼氏や彼女という肩書きで呼び合うことも苦手だった。

人を所有しているような感覚になり、ステータスとしての人間関係のように思えてしまったからだ。実際「彼女いるの?」と聞かれた時には、「彼女いますよ」ではなくて「付き合ってる人ならいます」と言っていた。謎配慮である(誰に)。

 何より、恋愛感情とは契約による義務感だと長らく考えていた。つまり、恋人だから迷惑をかけないようにしようとか、浮気と取られる行為をとらないようにしようという消極的な感情のことだと推測していた。世の中の人たちはこんな面倒くさいことをしていて大変だなぁとすら思っていた。

 そんな風に誤解をし続けたおかげで、僕が恋愛感情のないアロマンティックであることに気づいたのは今年に入ってからでした、、、。

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それまでの僕は恋愛はできると思っていた。結婚や家庭を持つことは端から候補になかったが、とはいえ恋愛はできるのではないかと漠然とした考えがあったのだ。そのことによって、僕はアロマンティックであると気が付くのにかなり長い時間がかかってしまった。

 今まで付き合った人には迷惑をかけたと思っている。僕はあまりいい恋人ではなかっただろうから。

 とはいえ、ここで一つ訂正を入れておきたい。 今までの文章を読んだ人なら、僕がアロマンティックであることに幼少期のトラウマが影響しているのではないかと考える人が少なからずいるだろう。

しかし、ここには明確な距離がある。確かに、結婚や家庭を持つことを考えると、頭が痛くなり、ギチギチに詰まったブラックボックスをこじ開けられるような激しい苦痛があるのに対して、こと恋愛に関してはただ湧かない、恋愛にまつわる行為が苦手なだけで、それ以上でも以下でもないのだ。

 実際楽しくはないが、他人の恋愛話を聞くこともできるし、映画や漫画などの物語に恋愛要素が入ったとしても、まあ大丈夫ではある。しかし、そこから結婚・出産・子育てのパートが入ってくると即脳が強制的にシャットダウンする。

 というわけで、僕に恋愛感情が湧かないからといって、それを幼少期の体験に安易に結びつけるのはやめてほしい。

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友達の話とこれからについて。
大学以降でできた友達にはアロマンティックかアセクシャルの友達が多かった。もちろん、そんな友達も最初から自覚している人もいれば、最近になってアセクシャルであることに気がついた人もいる。いずれにせよ、知らないうちに同じような考えの友達が増えていたということになる。

偶然といえば偶然だが、僕はそのような理解者を見つけることにかけてはなかなかの運の良さがある。思い返せば、小学生時代から高校時代まで、一人ずつ信頼できる先生がいたし、それこそ卒業した後も直接相談をしに行くことは多かった。友達だってそうだ。今では会わなくなってしまったが、家に居られるような状態でなかった時に泊めてくれる友達がいてくれたことも大きかった。そのような支えなしでは今日まで生きてこられなかっただろう。

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僕の人生がこれからどうなるのかはまだ分からない。
僕の確たる居場所はまだどこにもないが、それは今後も居場所がないことを意味しない。
僕は僕自身で自分達の居場所を作っていくことができるはずだ。
それに、少なくともわかっているのは、それは恋愛や結婚というかていを経由しないということだろう。


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