「手の倫理」から改めて考える"コミュニケーション"

日々の読書に記録を、メモ程度の備忘録として残していきます。

手の倫理 / 伊藤 亜紗(著/文)

「伊藤 亜紗」の名前を明示的に意識しだしたのはいつだったか。多分、なんとなくそれまでも名前は知っていたけど、謎にDos Monosとのポッドキャストに出演していて、面白い人だなぁと思った記憶はある。そこから、意識して「伊藤 亜紗」が関わる文章だったり、本を読み始めた中で、今回取り上げた「手の倫理」を手に取ったのだった。

タイトルからして結構意味分からなかったが、読んでみるとここで繰り広げられる文章に対するタイトルとしてはこれ以上のものはないと分かる。「道徳」と「倫理」を区別してここまで考えたことはなかったし、さらにそこから「触覚」に注目しつつ、その中でもさらに「さわる」と「ふれる」という形に分解・整理して、「道徳」と「倫理」と対応させつつ、思考を深めていく。しかもそこでは、単なる思弁的な内容ではなく、個別具体的な事象・体験をしっかり紐づけて考えていく。こうやって、しっかりと生活との関わりを意識している論の進め方は、面白い。

この本のクライマックスは、やはり、"他者の体にふれることによって「生成モード」のコミュニケーションが立ち現れる"という議論に立ち入った時だと思う。「さわる」と対応させる「伝達モード」とは別の、「ふれる」と対応させる「生成モード」。「ふれる」と同じ形で、そこでのメッセージには発信者と受信者の区別は存在せずに、お互いの関わり合いの中で生み出していくコミュニケーション。コミュニケーションって双方向的なものだよねといった軽い言葉はこれまでも数多と使ってきた気がするが、ここではそういった表面的なものとは、一線を画したコミュニケーション論が展開されている。

ここで自分について考えてみると、確かそういう話もどこかに書いてあったと思うが、「ふれる」コミュニケーション、いやもうちょっと広くして、触覚を利用するコミュニケーションって全然やっていないよなと気付いてしまう。小さい頃は、喧嘩もあったけれど、人と触れ合うコミュニケーションの中で、学びをたくさん得た気がする。それが、大人になるにつれて、めっきりなくなっている。論理的に考えれば、子供のころは怖いもの知らずで、触覚の不確実性について意識していなかったが、大人になるにつれてそういうことも考えられるようになった、考えるようになってしまったと言えるだろうか。でも、それで良いんだろうか?触覚を通したコミュニケーションからしか得られない何かがあったりするのだろうか?

コロナ禍という影響もあって、自分もリモートワーク中心の生活になっている。そうなると、仕事におけるコミュニケーションに課題を感じることが、1日に1回はある。今までも大して出来ていたわけではないんだろうが、どうしても、うまくコミュニケーション取れていないよなぁと感じる場面が多い。そう考えると、足りないのは、触覚を用いたコミュニケーションだったりするのだろうか?

最近色んな企業がメタバースをやろうとしていて、まぁそれはそれで面白そうなので、結構ではある。しかし、メタバースで何をやるべきかって話を少し具体的に考えてみると、ここでいう触覚を用いたコミュニケーションを切り拓くことだったりするのではないだろうか?というか、もしそれが出来たとすると、もちろん仕事におけるコミュニケーションがガラッと変わるかもしれない。もっと言えば、今現代が抱えているSNSの闇にも一石を投じることが出来るのかもしれない。実感を伴わずに、あっちにもこっちにも言葉の矢を放つような世界に、触覚の概念を持ち込めれば、確実に世界のルールがガラッと変わるはず。そんなことまで考えさせられる本だった。

参考

手の倫理、その創造性

『手の倫理』 評者・池内了

他者に「ふれる」ことを問い直す

『手の倫理』伊藤亜紗著 触覚が開く関係の豊かさ

[書評]伊藤亜紗『手の倫理』――「わかるよ」の相づちが凶器に変わるとき。


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