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同じことをして、同じことを感じて欲しいという傲慢

 先日、妻と子どもと三人でゲームセンターのようなところへ行ってきた。実は、この施設は、私が小学校にあがる前ぐらいによく祖父が連れてきてくれた場所だ。

 当時は、全国的にアミューズメントパークが流行っていたようで、幼いながら、CMが流れていたのを覚えている。
 当時、室内にもかかわらず、かなり遅いジェットコースターのようなものもあった。幼い私は「あれ、落ちてこないかな」という気持ちですごい怖い乗り物だと思った。しかし、身長制限で乗ることはできなかった。フロアによってアミューズメントコーナーとゲームセンターコーナーに分かれていた。

 いつの間にか、アミューズメントパークはやめてしまい、そこには、ゲームセンター部分のみが残った。

 数十年ぶりだろうか。行ってみると、ジェットコースターのレールは未だに残っていた。使用している形跡は全くといってない。
 当時、このアミューズメントパークの移動用に設けられていたエレベーターは使用が禁止されていた。2~3階にわたっていた施設も1階のみになっていたのだ。
 そして、昔は、子どもを連れた人で溢れていたが、今は、中高生とご年配者の方ばかりで、私たちは、ういていたように思った。

 祖父との思い出があり、非常に寂しい気持ちになった。そして、「私の子どもは、私が祖父にここに連れてきて遊んでもらった楽しい体験をできないのか」と思った。

 しかし、このような自分の気持ちを冷静に考えるとおかしな話だ。父はブロマイドを大事にしていた。ブロマイドの話を嬉しそうにしていたことを覚えている。私からするとよくわからない感覚だ。ブロマイドを通じて楽しい感覚を味わうということは無理だと思った。同じようなことをして同じことを感ずることは難しい。

 よく考えると私と子どもも同じ関係ではないか。私の中には、「私と同じことをして、同じことを感じて欲しい、でも、それを感じられないのは、かわいそうだな」ということがあるのかな、と思った。

 いつの時代に生まれるのかは、選ぶことができない。環境も選べない。その中で、いろいろなことをして、いろいろなことを感じていくということを思ってみると、私の子どもにしてみても、私と同一の体験と感覚である必要はない(言い切りにくいけど)。

 今回、自分の傲慢さに気づいた。こんな時代に生まれる子どもは不幸というような言説があるようだ。この言説も私の傲慢と同一のものが根にあるのではないか。自分の子どもを信頼して、楽しいことを感じ、幸せになって欲しいものだ。

 あえて、時代が移り変わっても共通のものがあるとすれば、こういう思い出を通して、優しさを思い出すことがあるのではないか。今回の私の場合は、祖父の優しさだ。楽しい思い出には、そういう効能があるんじゃないでしょうか。

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