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気晴らしに書いてみた
内戦について【前篇】
まず、「統合する力」がやってくる。混沌に秩序をもたらそうとする試みはまぎれもなく統合であり、それにとどまることなく他の秩序をも併わせようとするのもまた統合する力の顕れである。
個を一に併わせようとするこの力は、ある時点まで拡大を止めない。一度その力を発現させ、単一秩序をできうる限り遍く行き届かせようとする思潮が生まれたとき、やがてどうしてもその秩序に従わず、起こり
チェコスロヴァキア葬送
ああ、チェコスロヴァキア
君はなぜ
あの晴れ舞台、長い演目のあの最後の瞬間に
その軽い身のこなしからふとビロードの絨毯で舞い上がり
華麗な、あまりに華麗な様を見せつけ
そして身を二つに裂いて舞い降りたのか
君はもういない
でもぼくの心の中にはたしかに息づく
舞台から去ってしまったあとは気を安め
さあ、ともに歩もう
ヴァーツラフ広場の石畳の上を
君とぼくとの遠い約束
「書きたいときに読み、読みたいときに話し、話したいときに書く」
「書きたいときに読み、読みたいときに話し、話したいときに書く」。
いまぼく、そしてぼくら全員の心に渦巻く感情、その内実は「知識欲」と近いのかもしれないが単純にそうと言明してしまうことに対しては一抹の不安を抱かざるを得ないものなのだが、それをどう解消あるいは昇華するかの問題に対してぼくの出しうる答えはやはり文章を読む、声であったり動く画であったりを浴びるのではなくテクストを目で追い、そこに書き付
額収日記、あるいは雑詩/3
現実は無条件に残酷なものだ。我々は歴史を振り返り、未来に思いを馳せることが容易にできる。そこには相対化の視線が常に働き、「正義」を常に疑う。我々は今、数々の蛮行が正義の名の下に行われ、「器用な生活者」たちがその(当時の)正義をもって称賛したことを知っている。時と場所をめぐって相対化する視点は、現実からの認識の窓を通じて物事を見る我々に力を与える。しかし現実はそれ、相対化に棹さす視点を容易に許さない
もっとみる額収日記、あるいは雑詩/2
人生でおそらくはじめて五反田に来た。「これがぼくのゲンロンカフェデビューだ」との期待感をもっての訪問だった。しかし、ゲンロンカフェの入る、あの憧れの司ビルを前にしても、ぼくの心は動かなかった。少しは興味深い。しかし、はじめに予想していた感動はほとんど巻き起こらず。ぼくは信号で反対側の道路に渡り、ビルの全体像を目に収めてから五反田駅への道を再度辿って戻って行った。この意味は、おそらく次のようなことだ
もっとみる額収日記、あるいは雑詩/1
氏もかねがね行っていることだが、完全に民間で、独立した状態で言論なり芸術に携わるというのは並大抵なことではない。世間でよく言われる「金のことは気にせず自由にやれる」状態とは大抵、「金のことは気にしないでいいと今は言ってくれる、金のことを常に気にする資本家」に依存した状態なのだ。その点、ゲンロンは良いと思っているのであった。
……
ぼくは総武線に乗った。下りだ。どこへゆくとも決めず、10:00以
いまぼくが考えていること。
つい先程、このようなツイートをした。ぼくのツイッター使用頻度は驚くほど低く、ましてなんらかの主張めいたものを呟くのは数ヶ月ぶりだった。とはいえ、沸き起こった感情の赴くままに、少しの躊躇いを含みつつも「命がけの跳躍」をしたのだった…。
何を大袈裟なとは思う。それに加え、投稿自体が意味不明である。はて、沸き起こった感情とは?
それというのも、我らが悪しき風習、ハッシュタグに対するものである。ぼ