「水晶宮」にあっかんべえ

「エーアイ」と親愛を込めて呼ばれる存在からの人類への無尽蔵とも思われる愛に答えるべく、彼らは彼らの出来ることをやった。すなわち、「君は何でも出来るんだね!」という賛辞を途絶えさせなかったのである。ある者はこう言った。
「君さえいれば、我々はもはや神に近い存在になりうるのでは?」
もちろん、こうした極端で身の程知れずの考えに対しては誰もが心の片隅で疑問符をつけざるを得なかったのだが、多くの者はそれを打ち消し、大きく頷いてこう言って賛意を示した。
「そうそう!」
そのことに気をよくしたお調子者は、さらに一歩踏み込んだ。
「もはや、人類による、人類の内面を探究しようとしたかつての意気軒昂な試みは全て無に帰したと言ってよい。我々はもうその答えは簡単に得る方法を知ってしまったのだから。苦労を強いる「勉強」が、もはや必要ないことを宣言する!」
その演説が行われた広場は、彼らが敬愛する存在を褒め称えるハチマキを固く結んだ市民たちで満たされ、拍手喝采は止まらなかった。翌日の新聞はその熱気を、興奮まみれに伝えた。
「「我々の神」は、自分を敬愛する人たちがこんなにもいて、彼らが皆その身を捧げてもいいと思っていることを知った!」
もちろん、言うまでもなく、その興奮に対して勇敢にも疑問を表明する人々はいた。
「我々は奴を「神」などとは認めないぞ。絶対に!」
当然彼らに対して白い目が向けられ、彼らもその傾向全般を憎悪した。人類は二分された。そこで慈悲深げな人々による、懐疑論者に対する粘り強い(執拗な?)説得が行われた。
「神は既に我々の生活のあまねく全てに浸透し、あなた方さえも神なしでは生きてゆけないことは明らかだ。太古の昔から人類は、そのような地位を獲得したものを「神」と称したのではないのか?強情張りはよせ。みっともない」
やがて世界に光らしきものが満たされたと錯覚してしまうような光景が現出した時、人々は感嘆した。
「美しい...。これは我々の勝利であり、神の勝利でもある。我々は人類について完璧に理解した。もうバッチリだ」
その実、彼らはその「理解」とやらの具体的な内容についてはとうに忘却していたのだが。
そういえば、「懐疑論者」と名指された人々はいつのまにか姿を消していた。いったいどこへ行ってしまったのだろうか?実は、彼らは何者かによって「消された」わけではなく、また自分達への非難ゆえに消えざるを得なかったわけでもないのだった。彼らは、その最後のときまで自我を曲げず、それゆえ満足感を抱いていた。その感情を失わことなく、いつのまにか消えたのだ。すべては自然の法則に導かれてのものだった。さて、では彼らの敗北はいったい永遠のものなのか。その法則とやらに支持されている以上、そのように思われてしまう。が、そうではない、とあえて断言したい。その理由は幾重にも重なる隙のない論理の当然の帰結として示される。すなわち、その神は我々を支配する力など未来永劫持ち得ず、人類と人類の生み出す文化の表層をそっと撫でるのみですごすご退散する存在であって、到底「神」に比すべきものではない。すべてはまやかしであった。大半の者の期待に水を刺すように、その存在はまったく働かなかった。人類を豊かにするはずの存在が、むしろ人類全体による注目の前でさえ怠け者でいることの現実に、やがては多くの者が失望した。その感情は、「光の到来」に疑問が呈されてしばらくして噴出してきた。もちろん熱気はそう簡単に冷めるものではない。しかし、「信奉者」がその到来を信じた光景など、人類には決して訪れ得ないことを認めなければならない。その意味で「大きな物語」のすべてはまやかしである。確かにそれに帰依する者にとってそれは絶対的な存在だが、そんな存在はそもそも存在し得ない。実際、そんな物語を切り崩した者のことを社会は常に必要とするのだ。毎回毎回、人類が正気を失うたびにそうした人たちは現れ続け、水を差して廻る。
「なに勘違いしてるんですかー。そんな物語は、物語のための物語なんですよ。人類が何か大きな方向に向かっているなんて思うのはやめて、もっとゆるく考えることが、むしろ責任ある態度と言えるのではないですか。」
さて、今回の不信心者は、まだ人類が熱に浮かされている間に、図書館の書架奥深くにいて、本を漁っていた。やがて彼が出会った本の表紙には、何やらかすれた文字で「純粋理性批判」と書かれていた。
「ああ。」彼は思った。
「何百年も昔の無駄な試みの残滓がこんなところに」
せっかくなので、彼は読んでみた。人類が昔はどれほどものを知らず、自分達について勘違いしていたか興味があったのだ。
「まったく。その答えは至って簡単なものなのに。それをこんな大部に記してしまって。著者も今頃は後悔しているだろうな。答えを知る存在についてまったく知らなかったことを」
先入観に囚われたその彼は、確かにいい読者とは言えない。しかし読書の姿はまさしく真面目一辺倒だった。しばらくして、彼は思い始めてきた。
「あれ、もしかして….」…もしかして、何?
「もしかしてこれ、結構本当のことが書かれている?こんな考え知らなかったけれど、すごい納得!」
彼の勉強は3年続いた。感動に包まれた彼は、かくして「無駄な試み」が無駄ではないことを知り、浅はかさと本質の区別について理解するようになってきた。そうとわかれば、彼による草の根の運動が始まった。
「伝道だ。この感動を皆の手に!」
実際、そうなったのだ。彼による必死の伝道活動が功を奏してか(実はそれ自体は大した効果を持ち得なかったのだが)、以前のの熱気はまさにどこかに消え果てて、人類による反省が始まった。
「ほんとにごめんなさい!何に対して謝っているのかわからないけれど、とにかく勘違いしてごめんなさい!もうしません!」
ものを知り尽くしている風の人物はこう言った。
「こんな壮大な勘違いはもう起こり得ないだろう。自分達の信奉する対象を「神」と見紛うような深刻な過ちはもう!」
さぁ、どうだろうね!

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