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いまぼくが考えていること。

「器用な生活者」論について考えている(2023.0323)

 つい先程、このようなツイートをした。ぼくのツイッター使用頻度は驚くほど低く、ましてなんらかの主張めいたものを呟くのは数ヶ月ぶりだった。とはいえ、沸き起こった感情の赴くままに、少しの躊躇いを含みつつも「命がけの跳躍」をしたのだった…。
 何を大袈裟なとは思う。それに加え、投稿自体が意味不明である。はて、沸き起こった感情とは?
 それというのも、我らが悪しき風習、ハッシュタグに対するものである。ぼくは、あるハッシュタグがトレンドを占めているのを目にし、その瞬間心が沈んだ。よくあるツイッターデモ(デモですらないが)の、ほんの一つであって、そのようなことにいちいち反応していてはネットを使いこなすことなど到底できないだろう。不快なものはなるべく目に入れず、そっとウィンドウを閉じる。それが我々いまを生きるネット民の良識だろう。しかし、誰かが「正しい」ことを言わなければならない。そう思うことこそ、ぼくに潜む政治性の現れであるわけだが。
 ここでぼくがみた低俗極まるハッシュタグを詳らかにするのは避けたい。なんらか政治関連のものである。そして、下品な言葉を含む。内輪で盛り上がる分には良いだろう。攻撃対象を揶揄し、それを見るものの印象に残し、社会にちょっとした影響を与えられると彼らは思い、喜んでいることだろう。「大衆」ついてきてくれる!と。それはそれで愛すべきことではある。
 しかし彼らのその行動は果たして「正しい」のか。それを問うべきだと思う。すなわち、左右両極の人たちが、自分たちの「正しさ」を盛んに喧伝することで、「大衆」は本当に彼らについてくるのか。ついてこないと、ぼくは思う。歴史がそれを証明するだろう。

 いま、この前書き的文章でぼくの属性を説明するのは無理だが、ぼくは歴史に常に興味を抱いていた。ゆえに、歴史からものを考えたい。左右が過剰に無視したり、過剰に言い立てる歴史なるもの。それを、ぼくが愛するままに述べたい。
 さて、「器用な生活者」なる概念。それをこれから説明していきたい。これは「大衆」とは少し重なり、少し逸脱する。それ以上に、「大衆」概念は手垢がつきすぎている。それをぼくなりに更新していきたい。


パラフレーズさえ揺るがせすぎな拙い文章を書いてしまった。やれやれ。これから書きたいことを書けるだろうか…。

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