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額収日記、あるいは雑詩/3

2023年4月5日(水)

現実は無条件に残酷なものだ。我々は歴史を振り返り、未来に思いを馳せることが容易にできる。そこには相対化の視線が常に働き、「正義」を常に疑う。我々は今、数々の蛮行が正義の名の下に行われ、「器用な生活者」たちがその(当時の)正義をもって称賛したことを知っている。時と場所をめぐって相対化する視点は、現実からの認識の窓を通じて物事を見る我々に力を与える。しかし現実はそれ、相対化に棹さす視点を容易に許さない。我々の相対化の試みは当事者性と党派性の切実ながらも醜い波によって押し流され、我々をしてその落とし穴に嵌ることを強いる。当初はそれに抗おうとし、真の意味での「知識人」たろうとした人々も、やがては短絡を厭わなくなりさまざまな社会問題に対して党派性を存分に発揮して無責任にも頭を突っ込み、単純な主張をまるで器械(言葉の自動機械? )かのように繰り返す。彼らはいう。それが責任ある行動だと。目の前に繰り広げられている悪に、声を上げることが必要だと。当事者に寄り添って相対化を拒否し、悪を指弾する。確かにそのような行為はかっこいい。勇ましい。みんな拍手喝采してくれる。

だけど違う。あなたに相対化を憎んでいるとは言わせない。

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