「好きの搾取」への宣戦布告
「好きなんだから無償でいいよね」
小説を書いて発信していると、時々出会う言葉。
小説に限らず、絵や音楽や写真、何かを創作しているひとに、時々浴びせられる言葉。
好きだったらどんな条件でもどんなことでもやってくれるでしょ、という
「好き」を、搾取する言葉。
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私はお金のために文章を書いているわけではない。
言葉にすれば文庫本になるくらいの、思いと覚悟で書いている。
だから、「ここで書いていいよ」と言われることはとても嬉しい。
その対価として、いくらほしいなんて思わない。
でも、無償で書いてよという場面と出くわす度に、心がじゃらりとする。
その感触を抱くのは大抵心と金銭的に余裕がない時なので、今はそういう時なのだと思う。実際、休職になってからはどちらの余裕もない。
小説を書くには、精神的にも経済的にも余裕が必要なのだと身を以て感じた。
だから、私はきっと仕事に戻るんだろうなと思う。
それはそれとして。
仕事であれば、無償案件なんてない。
何のためにやっているかよくわからない案件にも、金銭的な対価がつく。実際私が任されていた案件は、少しの匙加減で何百万が動くものだった。
でも、私は小説を書くことを生業としていない。
趣味に落とし込むには、大きな存在になりすぎた。夢と形容するには、あまりに大人になりすぎた。
もはやひとつの救いのようなものになっている。
小説を書くことが好きだ。大好きだ。
だからこそ、その好きを搾取されるのが、かなしい。
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小説に対しての考えは多種多様。
問題提起だと考えるひと。エゴイスティックな吐露だと考えるひと。単なるマスターベーションだと考えるひと。
私は、何ものにも救われなかった時の、最後の救いだと思っている。
こんなに多様な考えがある時点で、小説の価値の数値化なんて、できるわけではない。
村上春樹の小説に1万出すひともいれば、1円足りとも出さないひともいる。
小説ってそういうものだ。
だから、好きでないと書き続けられない。書く理由は色々あれど、根本にあるのは「小説を書くのが好き」という思いだ。
でもそのことと、「好き」を搾取されることは別問題だ。
喚こうが嘆こうが、今の日本は資本主義で、人間が最低限度の生活をするにはある程度のお金が必要で、文化的な生活をするには更にプラスのお金が必要だ。
小説家も人間であり、好きだからという理由で無償でものを書き続けていたら、いつか住む場所も食べるものもなくして死ぬ。
どんなにいい物語を思いついても、原稿用紙とペンが買えなかったら形にすることができない。スマホやパソコンがなかったら、SNSという海に放つこともできない。
世に出るはずだった沢山の灯が、誰かを照らすことなく消えていく。
そんなかなしいことはない。
かなしい。かなしい。とてもかなしい。
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お金をもらってしまったら、何かが変わってしまう怖さもある。
好きでやっていたことに金銭的価値が付随した瞬間、純度が損なわれてしまうような気がして。
これはきっと、好きなことを生業にしようとするひとがぶつかる壁なのではないだろうか。
お金の話はどうして汚く聞こえるんだろうか。
本当は、とても大切なことなのに。
お金をくれないと何も書かないよ、という人間にはなりたくない。
私の文章の価値なんて0なんだ、と悲観に暮れたくもない。
誰かにとって価値がある文章を書きたい、という向上心は抱いていたい。
かといって、価値のある文章を書かなきゃ、という強迫に潰されたくはない。
誰かにとっての傘になれる文章を書きたい。
それが、小説家としての私の軸。
そのことに価値を見出してくれるひとがいれば嬉しい。いなくても、好きだから書き続けるけれど。
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何かを創作しているひとたちへ。
私はこれからも、つくります。
太宰治にもドストエフスキーにも書けない、私にしか書けない物語を、紡いで、紡いで、紡いで、そっと世の中に放っていようと思います。
だからどうか、皆さんもつくり続けてください。
私は読みたい。聴きたい。感じたい。
そして、創作しているひとを応援してくれるひとたちへ。
私たちはこれからも、つくります。
色々な場所で戦いながら、命を燃やして、つくり続けます。
世界には物語が必要だと思うんです。
だからどうか、手を差し伸べてください。
誰かの救いになるかもしれない灯を、消さないように。
これはささやかな宣戦布告です。
取り急ぎまして。
土曜日の昼下がり
クーラーの効きすぎたカフェの窓際にて
夕空しづく
眠れない夜のための詩を、そっとつくります。