渋谷駅で写真を撮っているのなんて、たぶんあの瞬間は私だけだった
To 1年前の私
CC これからの私
お元気ですか。
突然ですが、今から大切な話をします。
1年後の今日あなたは、あなたがこれから通い始める会社を退職致しました。
自分で考えて決めたことです。
今のあなたに話しても、何ひとつ信じられないかもしれません。
だってあなたは今、自分が「普通」のレールにのれたことに心底安堵しているだろうから。
それだけがあなたの自己肯定感をぎりぎり保ってくれているはずだから。
これから先、あなたには想像しえないことしか起こりません。
だからこれは、ひとつの世界線の物語として聞いていただけたら幸いです。
1年経つとね、こんな言葉遣いもできるようになるんですよ。
*
初めて出勤した日のことを、今でもよく覚えています。
どんなに混んでいても座れないことなんか滅多にない場所で育った私にとって、満員電車に揺られるという経験自体とても新鮮でした。
流れていく景色の背景には山など一切なくて、ああ私は東京に来たのだと、現実味がない高揚感を抱いていました。
私はずっと、遠くへ行きたいと思っていました。
自由になりたかったんですね。東京には、自分を自由にしてくれる何かがあるような気がしました。
人生の中で、東京で生きたという時間がほしかった。東京でしか書けないものがある気がした。そんな作家根性も、確かに持っていました。
でも、恐怖も感じていました。
東京にではなく、自分自身に対してです。
「普通」に生きようとすることにくるしさを感じていたのに、「普通」に駆け込み乗車できた瞬間、安堵を感じている自分がこわかった。
慣れないパンプスもスーツもカバンも全部、私の個性を塗りつぶす絵の具のようで、気持ち悪いと思いながらも安堵して、スマホばかり眺めているひとたちの中で、窓の外ばかり見ていました。
*
研修中、私の中にあったのは「絶対負けてたまるか」という、執念じみた根性でした。
東京出身者が大半のメンバーの中でたったひとり、地方からの上京・ひとりぐらしというハンデを背負いながら、絶対負けてたまるかと思っていました。お母さんの作ってくれたお弁当を当たり前のように食べる同期の横で、コンビニで買ったサンドイッチを齧りながら、私にはそんなものいらない、なくたってひとりで平気、と言い聞かせていました。
仕事に加え、プライベートでもストレスフルなことが続きました。関わらなければならない人と関わることに時間と心を削り、本当に関わりたい人やものとどんどん隔離していく感覚がありました。
人混みの刺激がこわくて、休日ひとりで最寄り駅に行けなくなりました。
こわい思いをする度に、誰かたすけてくれと思いながら部屋で泣いていました。
東京は容赦ないと思いました。
それでも研修には一切手を抜かないと決め、毎日満員電車に揺られました。
その結果私は、一番人気で、多忙で、厳しくて花形の部署配属を勝ち取りました。
報われた、と思いました。
でも、社会の本当の厳しさを知るのはそれからでした。
*
信じられないことに、仕事を「楽しい」と思う瞬間がありました。
私が何年も積み重ねてきた思考と執筆経験は、ビジネスにおける場でも役に立ちました。あなたの能力をここで生かしてほしいと言われた時、とても嬉しかった。横文字だらけでうんざりしながらも、割り振られる案件に怯えながらも、自分が必要とされている気がして嬉しかった。
言葉と向き合い続けてきた経験が仕事に生かせるのだと知り、とても晴れやかな気持ちになりました。
私は社会に出る前、仕事に「クリエイティブ」要素を求めるのを諦めました。それなのに結果としてクリエイティブな仕事に携われていることが、とても嬉しかったのです。
思い返すと、あの部署での仕事が好きだったのだと思います。
私の直属の上司は、すごく仕事ができる人です。部内の人も皆優秀です。そして朝も早く夜も遅い。そこで頑張り続けることができれば、私はやっと、自分を認められるのではないかと思いました。
ただ、人間関係や執筆活動、その他諸々、人生の大切なこととの両立ができるほど、私はマルチタスクが得意ではありませんでした。
厳しいことや理不尽なことやつらいことが起きた時、これをここで耐えれば、在りたい自分に近づけると感じられたら、私は頑張れたと思います。
でも、それを感じることができなかった。
周りのせいではありません。
私が耐えるくるしみはこれではないと感じたのです。
人生は何を選んでもどうせくるしいんです。
だからこそ、どのくるしみなら耐えたいと思うかを考えなければいけないんです。
自分の感じた違和感に素直になって、自分が生きたい場所で頑張れるよう動きたいと思いました。
今だから言います。
あなたはよくやっていた。
悩んで葛藤して、現状と理想から課題を分析して、その解決方法を必死に考えて動いていた。
7月、私は休職を決断します。
*
会社を休職した時、嵐の「果てない空」という曲を思い出しました。これは、二宮くんが主演した「フリーター、家を買う。」というドラマの主題歌です。新卒で入った会社を3ヶ月で辞めた主人公が、鬱になってしまった母親や自分自身と向き合いながら成長していく物語でした。
久しぶりに思い出して、ドラマの内容と曲の歌詞が心に刺さってしまって、ぼろぼろ泣きました。
当時は、「就職」というものが何なのかも、短期離職した後の行く先がどれほどくるしいかも、家族内で問題が起こったときにどんな感情を抱くかも、何もかも知らなかった。
そのすべてが理解できるほど、私は大人になってしまったのだと思いました。
停滞が何よりストレスな私は、休み中にもかかわらず色々な場所へ足を運び、転職活動をはじめました。その過程で、厳しいことも沢山言われました。アポを取った企業の人からも。家族からも。そして自分自身からも。
その度に言い返せなかったのは、心の奥にわだかまりが残っていたからです。
私はまだ、東京で納得するまで頑張れていないじゃないかと。
就活を頑張って入った会社です。持てるものすべて使って入った会社です。
自分が「頑張れていない」ことがゆるせなかった。あなたは自分に厳しい人だから。
私は復職を決めます。
でも気持ちの軸は、会社ではない場所にあるのを感じていました。
おそらく、長く今の会社にいることはないだろうと思い、会社への誠実さを示さなくてはならないと思いました。
前の部署に移ると、数年単位のプロジェクトに関わることになるとわかっていました。それはすなわち、あと数年つまり20代の前半を会社に捧げることを意味していました。
それは私の望むことではない。
生きたい場所へ向かう切符を得るために、まずは自分のできることを、納得いくまで頑張らなければ。
だから、別の部署に戻ることを選びました。
*
配属された部署ではいわゆる「新卒らしい」仕事が割り振られました。
電話をとる、メールをする、Excel資料をつくる。私が想像していた、新卒の仕事でした。
まずは丁寧にこなそうと思いました。
ひとつひとつ。着実に。
でもクリエイティブな仕事から遠のけば遠のくほど、心はゆっくりと確実に弱っていきました。
あんなに焦がれていた定時退社を得たのに心は満たされませんでした。PRONTOの中で必死に文章を綴り、連載企画に参加し、編集者さんに連絡をいれ、ひたすら書き続けました。
言われただけの仕事だけで満足したくなかった。
私は頑張りたかったのです。
復職して数ヶ月後、部長に話し、私に企画をさせてほしいと頼みました。業務の中から課題を見つけ、前の部署で教わった企画立案方法にのっとって企画書を作成し提出し、ひとつを通しました。
新卒でこんなことを成したのは初めてだと評価されました。あなたは優秀だと言われました。でも私は、誰に何と言われても満たされませんでした。それはつまり、自分が自分を認めてあげられていないことを意味していました。
通常業務をこなしながら、プラスαで自主的な業務を行うようになりました。デザイナーではないけれどデザインの勉強をし、アイデアを出し、企画案を練り、アウトプットし、加えて資格試験の勉強もしていました。
今思うと明らかにキャパオーバーで、それを必死に隠そうとしていました。
人生は仕事だけではありません。その他にもやらなければならないこと、考えなければならないことが沢山あったし、頑張れば頑張るほどマイナスな感情を向けられることも増えて、精神はどんどん弱っていきました。
1月頃に、ぽきっと心が折れる音がして、だめだ、選ばなくちゃと思いました。
私は、今生きたい場所ややりたい仕事を、自分で選ばなくちゃ。
私が求めたことは3つでした。
・一旦地元に帰ること。
・クリエイティブな仕事をすること。
・ゆくゆくは場所にとらわれない働き方をすること。
エージェントAさんは言いました。
「東京だったらたくさんあるけど、地元に帰るのは諦めたほうがいいんじゃないですか、どこか妥協しないと」
エージェントBさんは言いました。
「経験浅いひとを採ってくれるところなんてないんじゃない、それより我社のクリエイティブ専門セミナーはどうですか、今なら月額なんと、……」
エージェントCさんは言いました。
「好きなことを仕事にできなくても、向いている仕事があるかもしれませんよ、まだ若いんだから」
どのアドバイスにも打ちのめされました。
私はいいコンテンツをつくりたいだけなのに。
伝わらずに消えてしまう思いを、すこしでも多くかたちにして、世の中に伝えて残したいだけなのに。
その土俵にすら立ててないんですか?
私が10年以上続けてきた執筆活動や、仕事と平行して書いてきた記事や、勉強してきたデザインやマーケティングの知識は、評価対象にすらならないんですか?
加えて、執筆関係で嫌な思いをしました。文章の内容ではなく私が若い女性だからという理由で評価・搾取されそうになり、誰も私の話など聞いてくれないのだと絶望しました。
実家を頼るという選択肢はありませんでした。
帰ることができないとわかっていたからです。
どんなに精神を壊しても私には、自分以外に経済的地盤がないのです。その事実に絶望しました。
生活が乱れ、食事をまともに摂れなくなり、動悸で動けなくなり、眠れなくなりました。救急車を休日に呼んだら15000円かかりました。医者に頼る余裕もどんどんなくなりました。
そうなって初めて私は、人を頼りました。
頼る、というか、むりやり手を引っ張ってもらいました。
家に駆け込んだり、来てもらったり、電話してもらったり。泣いたり夜魘されたり、きっと迷惑をかけたのに、私が大切な人はいつだって私を受け入れてくれました。一緒にごはんを食べて、眠って、話してくれました。それにどれだけ救われたことか。
あなたがどんな世界線を選ぶかわかりませんが、あなたが大切にしている人たちが、あなたを大切にしてくれていることは決して忘れないでくださいね。
*
1月から3月にかけて私は、転職活動を必死に行いました。
自分のやりたいこと、在りたい姿、得たいもの、そして現状できること、できないことと丁寧に向き合い、文字に起こし、話を聞きたいと思った会社や人に向けて手紙を出しました。
その間も東京は、というか人生は私を放っておいてはくれず、毎晩のたうち回る日々を送っていました。
覚悟を決める、ということが自分にとってどういう状態を指すのか、ずっと悩み葛藤していました。
考えて考えて動いて立ち止まり、また立ち上がって動いて、ありがたいことに、私を受け入れてくれる会社と出会うことができました。
出会わせてもらった、という方が正しいかもしれません。
東京に出て、クリエイティブ業界に触れて、一度休んで地元に帰り、そこで新しい働き方や界隈を知り、復職し、自分にできることを精一杯行った上で、頑張る場所を変えようと決意し、その過程で人に支えられながら、地元でクリエイティブな仕事をするに至りました。
誰に何と言われても、つらくても厳しくても、それは私が思い描いていたことでした。
*
3月半ば、会社を辞めると報告しました。
原因はすべて自分の意思によるものだと伝えました。
誰かの、何かのせいにしたら、それをずっと恨んでしまいそうだったから。そんな自分のことをゆるせないと思ったからです。
驚かせてしまったけれど、話をしたら皆納得してくれました。背中を押してくれました。
最後にごはんに連れて行ってくれたのは、前部署の上司でした。好きなもん食べな、とイタリアンをご馳走してくれました。
あなたの元で学べた経験が、今の私の選択と結果に繋がったと伝えました。迷惑もたくさんかけたけれど、あなたの元で学べてよかったと。
消化のよいものしか食べられない私のかわりに、上司はフォアグラを美味しそうに食べながら「よかった」と笑いました。「仕事は人生のウェイトを占めるものだから、少しでもやりたい仕事を見つけることができたならよかった」と。
あなたの元で学べて幸せでした。学んだことはきっと無駄にしません。そう強く思いました。
現部署の上司には、穴をつくってしまってごめんなさい、と謝りました。そのあと上司が言ってくれたことは、たぶん忘れられないと思います。
「穴ができてないと言ったら嘘になる。あなたはそれくらいのことをしてくれていたから。本当は辞めてほしくなかった。でも、あなたが考えて決めたことなら止めることはできない。あなたにはたくさんお世話になった。ありがとう」
間違いじゃなかった、と思いました。
この会社に入ったことも、このタイミングで辞めることも。つらかったこともくるしかったことも全部、報われたと感じました。
会社に対して最後に抱いた感情は、「ありがとう」でした。
迷惑をかけたこともあったし、パワハラ言動に傷ついたこともあったけれど、総括して、ありがとうと思いました。
それは私が紛れもなく、ここで頑張ったと思えたからです。
*
会社を辞めた日、生まれて初めての感情を抱きました。
23年生きて、まだ知らなかった感情があることに衝撃を受けました。
嬉しいのか悲しいのかさみしいのかこわいのか、喪失感なのか解放感なのか、わけがわからないまま会社を出て、ふらふら歩きました。人生の一幕が降りた私のことなど誰も気に留めないこの街のことを、ひどく愛しく思いました。
電車に乗り、渋谷駅で降りました。
この感情を言語化する術がないもどかしさを引きずりながら、せめて今日見ていた景色だけは残そうと思いました。
渋谷駅から、スクランブル交差点を見下ろし、瞬きでシャッターを切りました。
この瞬間、渋谷駅で写真を撮っているのなんて、たぶん私しかいませんでした。
上京したての少女かよ、と思い笑いました。社員証の抜けたカードケースを首からぶらさげ、餞別の入った袋を片手に、渋谷駅で途方に暮れている私の横を、幾人もの人が通り過ぎていきました。
その後友達と合流しました。
よく頑張った、と抱きしめてくれて、そのまま飲みに連れて行ってくれました。
たくさん食べてたくさん飲んで、今までを、今を、これからを語りました。
その時飲んだビールは、人生で一番美味しかったお酒ランキングの1位を一瞬で更新しました。
店が閉まったあと、ふらふらになって笑いながらアイスを買いに行って、そのままカラオケで歌いまくりました。笑ってんだか泣いてんだかわからないテンションで、会社を辞めても人生はこんなに楽しいのかと混乱しました。
帰りのタクシーで、東京が好きだなあと思った時、やっとわかりました。
私にとって大切なのは、場所ではなかったのだと。
そこに誰がいるかが大切だったのだと。
深夜3時に布団に入った時、人生がひとつ終わったのを感じました。でもそれは絶望ではありませんでした。
拍手を浴びながら幕が下りて、次の明転を待つ舞台裏にいるような心持ちでした。
*
いかがでしたか。
今話したことを、嘘だと思いますか。
少なくとも今の私にとっては真実です。
これを真実にするか否かは、あなた次第です。
どんな選択をしても、あなたはあなたです。
東京に残るもよし、地元に帰るもよし、全く別の街へ行くもよし。
この世は思った以上に狂っています。
頑張っても白い目で見られたり、マイナスな感情を向けられることがあります。人に優しくしていても八方美人だと言われ、人と距離を置けば非情だと言われ、何をどう信じればいいかわからなくなります。
だから、絶望するななんて言いません。
絶望はしてしまうものです。
だから、安心して絶望していてください。
あなたが大切にしたい人を大切にしていてください。
傷ついてしまう自分のことを呪わないでください。
今でも私は色々なフラッシュバックに苦しんでいます。会いたいけど会えなくなってしまった人もいます。でも、誰といても誰を失っても、あなたはあなたを失うことはありません。
居場所というのは人の心の中にあるものです。
東京だろうが地元だろうが遠く南の島だろうが、関係ない。
あなたがただいまと言いたい場所が、居場所です。
帰る場所がなくたって、経済的地盤が一般的な場所になくたって、
あなたはちゃんと生きていけるし、それを嘆くこともありません。嘆きたくなるのもわかりますが、ないものではなくて、今あるものをちゃんと見てください。
この世界線に来なくてもいい。
別の世界線を選んでもいい。
でもひとつだけ約束です。
どんな世界線を選んでもいいから、どうか幸せでいてください。
私には、今生きている世界線の自分を幸せにすることしかできないから。
そっちはあなたに任せたよ。
ありがとう。
いってらっしゃい。
from 私
眠れない夜のための詩を、そっとつくります。