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出雲大社と伊勢神宮詣り

突然思い立ち、出雲大社へ行くことにした。
善は急げ。
あさって旅立とう。

さて、飛行機と宿をとらなければ。

はて…。
ネットで検索しようとして思わず手が止まる。久しぶりすぎて、どこでどのようにとっていたかを忘れてしまっていた。同じホテルでも価格を比較しなければいけないので、ムダに時間がかかる。もっと消費者のことを考えた対応ができないものか、といつも思う。

パソコンと首っ引きになり、直前だったが幸い飛行機も宿も取れ、ほっと一息。心はもう一足先に出雲へ旅立っている。

もう、わくわくが止まらない。
どうしよう。
2年ぶりの飛行機。
どこへでも好きなときに行けることが当然だった日々から、制限される日々に変わり、旅を考える心の余裕すらなくなっていた。

今回の旅も迷いがなかったわけではない。
だが、稲佐の浜が夢に出てきた。呼ばれている、行かなければ、一日も早く行かなければ。稲佐の浜に導かれるまま、熱に浮かされているかのように予約を取っていた。

あさって早朝には機上の人となる。気合を入れての5時起きだ。

前回は電車だった。
のんびり旅がテーマだったが、今回はビュンと飛行機。行きは出雲縁結び空港、帰りは米子空港から。一泊の短い旅。

興奮しすぎて眠れないまま朝を迎え、飛行機でもやはり興奮冷めやらず、しょぼしょぼの目で訪れた出雲大社。

雲一つない晴天で迎えてくれた。

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寝不足の目には、まぶしすぎるほどの青空。

そして、季節外れの熱い太陽の光が降り注ぐ。

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今回、どうしても行きたかった日御碕神社。
日本の昼をお守りくださる伊勢神宮に対し、日本の夜をお守りくださっているのが日御碕神社。出雲大社からバスで少しの距離だが、バスの本数が少なく、前回は諦めていた。

二体の龍神様か、お祀りされている天照大御神と須佐之男命だろうか。不思議な雲が、日御碕神社に入っていかれるようだ。

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翌日は松江城を散策。
思わず時間を忘れてしまうほど、すてきなお城だった。


出雲大社では小学生が写生をしており、すれ違うたびに「おはようございます」と元気な声がかかる。

最初は、私に言われているとは思わなかった。振り返ったら教師のような人がいたので、彼に挨拶しているのだと思った。だが、次に挨拶してくれた子は、はっきりと私の目を見て「おはようございます」と元気な声で挨拶してくれた。

一瞬ぽかんとなり、次には思いっきりの笑顔になり私も元気よく「おはようございます」と返していた。

朝から、若く穢れを知らない子供たちからの挨拶を受け、知らず知らずに溜め込んでいたであろう私の穢れも浄化できただろうか。学校の方針なのだろう。見ず知らずの人間に挨拶をすることは、大人の私でも難しい。最初の私のように、自分へではないという思いから、挨拶を返されないこともしばしばだろう。

現に、地元の人は挨拶を返してくれないと先生にぶーたれている子を見かけた。観光客の方が挨拶をするらしい。確かに、出雲では閉鎖的でぶっきらぼうな印象を受けたので、さもありなんと私は勝手に納得する。
それでも、あなたの挨拶に元気をもらえる人もいるのだよ、だから人を諦めないでほしいと心の中で応援する。



松江城でも写生をしている小学生に出くわした。この美の極致とも言える恵まれた環境で写生をしていたら、どれほど優秀な画家が生まれるのだろう、豊かな感性が育つのだろうと他人事ながら勝手に想像し、将来が楽しみになってしまった。


松江護国神社。

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上空には龍神様

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とにかく、たくさん歩いた旅だった。大地と繋がりなさいと言われているようだった。

帰りの飛行機は寝るつもりだったが、美しい景色に目を奪われ、またも寝ることは叶わなかった。

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〈番外編〉カラコロ工房にあったピンクのポスト。
『元々は松江城山内の「興雲閣(こううんかく)」前でポストとして利用されていました。現在はピンク色になって、カラコロ工房に引っ越してきました。「興雲」と「幸運」を掛けて、幸運を招くポストとして話題を集め活躍中です』

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これで旅は終わりのはずだった。

でも、心がずっと叫んでいる。
ざわざわしている。
これで終わりにしていいのか。
日御碕神社に行ったのに、なぜ伊勢神宮に行かない。伊勢神宮に行きたい、と。

ぐずぐずと迷っていたが、またしても突然行くことを決めた。そして、またも5時起き。

初日は外宮を参拝してから、神路通を通り大好きな月夜見神社へ。外宮からほど近いところにあるが、ほとんど人はおらず、優しい気で溢れている。

『神路通とは、夜更けに月夜見尊が境内の石垣の1つを白馬に変え、豊受大神のもとへ通う道とされる。そのため地域では、神路通りの中央を歩くことを避けてきた』

なんともステキな相手を想う愛に溢れる道。

翌日に訪れた内宮では、写真に虹が現れた。

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人気がなく、私だけのために開かれた鳥居のよう。朝の空気、土の匂いが心地よい。一歩進むたびに踏みしめる玉砂利の音。他に誰もおらず、私の足音だけが響く、じゃりっ、じゃりっ、じゃりっ。

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出雲大社も伊勢神宮も雲一つない晴天に恵まれた。神様に呼ばれているときは、全てがうまくいくということを実感した旅だった。

玉砂利をならし、掃き清める方を幾人と見た。参道には落ち葉が落ちておらず、また、玉砂利も歩きやすいようにならされている。おかげで気持ちよく参拝することができる。だが、玉砂利をいくらきれいに道の内側に整えても、整えるそばからやけに端を歩く人たちに乱されてしまう。

参道の真ん中は、神様の通り道。
住所と名前を名乗らなければいけない。

いつからか、これがマナーとして定着したように思う。

本当なのだろうか。
これも、マナー講師のような人たちが言い出したことではないのか。だいぶ前から、このことに関しては疑問を持っている。

神様を人間基準でしか考えられない人が言い出したように感じるからだ。神様が、こんなしみったれたことを言うだろうか。そもそも神様は、道を歩くのだろうか。名乗ることは礼儀だから当然として、住所など逆に神様に対して失礼にあたらないか。

上位次元に存在する神様は空中を、低次の存在である人間は地を歩く。だから、道のどこを歩こうが神様には関係ない、住所なども必要ない。
だって、神様だから。
これが、現時点での私なりの神様に対しての考えだ。


出雲大社も伊勢神宮も季節外れの暑さだったため、それぞれ一泊という短い旅だったが、こんがりと焼けてしまった。


買い物情報として、出雲大社近辺はレジ袋有料ばかり。一軒だけ、ふぐを使ったお土産屋さん(福乃和)が紙袋に入れてくれたので、お土産はそこでしか買わなかった。

俵まんぢうを買いたかったが、有料。かばんは着替えでパンパンで、余裕はない。福乃和にはまだ行っていなかったので、紙袋を手に入れていない。旅の最中にエコバックなど使いたくない。
現実に戻されたくない。
だから、いらない。

伊勢の内宮は、おかげ横丁は無料だが、それ以外は有料もある。外宮の伊勢百貨店だったと思うが、あちらも袋に入れてくれる。買っていないので確かなことは分からないが、外宮の他のお店も無料の気配がした。

観光客相手に有料にする店は、客商売に胡坐をかいている。旅行だから財布の紐も緩むだろうとの思いもあるだろう。だが、一方、非現実を楽しんでいる最中に現実に引き戻され、一気に引き締めモードに入るということもある。

私は後者だ。
レジ袋有料と言われた瞬間、うきうきした気分は吹き飛び現実に戻され、断って店を出た。

何円かのために、その先にある大きな利益を失っている。

出雲ではほとんどお土産は買わなかったが、伊勢ではたくさん買ってしまった。赤福を買っている人をとにかくたくさん見かけた。そこかしこに赤福の袋を提げている人がいた。


内宮に参拝した後、帰る前にもう一度外宮を訪れた。今回の旅への感謝を伝えるために。


人払いが起きた。


お賽銭を入れた瞬間、それまでいた人たちがさーっといなくなった。伊勢神宮で、一人静かにお参りできるとは思ってもいなかった。

最後の最後に、神様からすてきな時間をいただいた。

今回も心に残るすてきな旅となった。

他者に注意を払いながら過ごす毎日、お店での煩わしいやりとり、乾ききっていた心にたくさんの栄養をいただいた。



ありがとう。

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