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幼な子が無心に遊ぶ姿から人間本来のあり方を知り生きがい溢れる人生へ

先日投稿した記事「幼い子が遊ぶように生きられないのはナゼなのか?」の続きの考察です。

記事では、その理由を親との関係性の中で「自分を愛する」のをやめてしまうことを原因として挙げました。


「自分を愛する」どころじゃない社会の仕組み

親が条件付きの愛で子供を縛るため、子供は親の愛を得ようと自分を歪めてしまい、自分以外の者にならなければ自分は愛されない、ありのままの自分は愛されないと思うようになるということでした。

極めて根が深い問題で、虐待などとは無縁で世間的にうまくいっていると思われている親子関係においても当たり前に普通に見られます。

たとえば、「勉強しなさい、学歴がないと社会に出て通用しないから」、あるいは、「才能を見つけて伸ばしなさい、そうすれば食いっぱぐれないから」。
こんな言葉、むしろ、親としての務めぐらいに思っている人も多いのではないでしょうか。

それどころか、「ぐずぐずしないで。さっさとしなさい。でないと置いていくわよ」。こんな当たり前によく聞く言葉すら、よく考えてみるなら、子供にとってはものすごく恐ろしい心を抉るような言葉です。

なぜそうなのでしょうか?

「恐れ」から始まるつらい人生

結局のところ、上記のすべての例で、親自身の「恐れ」が出発点となっているのです。

その恐れのさらに原点はというと、「自分には存在する価値がない」という無価値感です。

少し飛躍を感じるかもしれないので補足すると、自分が存在することに十分な価値があるなら、天でも神でも人でも、誰でもいいんですが、きっとお世話してもらえる、そして世の中は安心な場所と自然に思えるのではないでしょうか。

その根拠のない安心感、信頼感がとても重要です。安心と信頼がベースであるか、恐怖と不信がベースであるかで、人は全く真逆の人生を歩むことになります。

不信と恐怖の人生の付きもの

そして、不信と恐怖がベースの人生は、巧妙で狡猾な観念を引き連れており、さらに私たちを縛ります。

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