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記者になりたいと思った理由は、編集手帳だった。(竹内政明『名文どろぼう』)

「なんで新聞記者になりたいって思ってたんだっけ…」
昨日の夜、寝る前に歯を磨きながらふと考えていた。

大学生のときのいろんな記憶がフラッシュバックみたいに呼び起こされて、洗面所を飛び出し歯ブラシをくわえたまま本棚でこの本を探した。

表紙をめくって、ほっとした。私の名前と直筆のサイン。

新聞記者になりたいって思った理由。
それは「彼みたいな文章を書きたい」って思ったからだった。

早々と新聞記者は辞めた。けど今でもその夢は追えているのがちょっとうれしかった。

編集手帳と出会った高校生

高校生から漠然とマスコミの仕事をしたいと思っていた。
受験勉強の一環で、新聞の社説を切り抜いて要約するトレーニングをしていた。

そこで出会ったのが「編集手帳」だった。

当時、実家で購読していた新聞は読売新聞だった。
私が中学生ぐらいまでは毎日新聞を取っていたけど、ある時から読売に変わった。
主な理由は以下4つ。
・家の目の前に販売店ができた
・勧誘員に母が「娘(私)がプロ野球が好き」とほのめかすと、その日のうちにジャイアンツやタイガースのグッズをいっぱい持ってきた(私はライオンズファン)
・でもそれなりに嬉しかったし、スポーツ紙面が充実していたのも嬉しかった
・母は、定期的にビールやら洗剤やらをもらえるし、気分転換に読売に変えてもいいと思った

私の地元は田舎というのもあり、地元紙の覇権が強い。
学校の授業で新聞記事を持ち寄る課題があったときも、地元紙だった生徒は6~7割ぐらい占めていた。
全国紙の販売店にとってみたら、地元紙を購読していない世帯はレアで取り合いになっていたんだろうな…。

母は「全国紙の方がサービスいいから地元紙は取らない」と頑なに言っていた。
数年後、娘はその地元紙に就職することになるんですけどね。

東京ドームで雨に打たれた大学4年生

高校卒業後、念願だった都会の大学に入学。ある先生との出会いをきっかけにジャーナリズムを学ぶゼミに入り、新聞記者を本格的に目指し始めた。

大学に入って初めて、「読売新聞の社説は、必ずしも正解を書いているわけではない」ことを知った。それでもやっぱり第一志望の座は読売だった。

「竹内さんみたいな編集手帳を書きたかったから。」

今でこそ、論説委員で一面コラムを書く記者がどれだけ優秀で選ばれた人であるかはわかるけど、大学生の自分にはそんなにわからなかった。(恥ずかしい)
ESでも面接でも「読売っ子」であることをアピールしようと画策していた私にとって、またとない”ネタ”ができる。

ゼミ全体で日本記者クラブの学生会員になっていたので、ゼミ生全員で聴講しに行くことになった。

実はその日、当選していた東京ドームの読売ジャイアンツVSオリックス・バファローズの観戦ペアチケットの試合日だった。
これも読売新聞の懸賞かなんかで当たったものだった。
この世で一番聞きに行きたい講演会とブッキング。もちろん優先するのは講演会だけど、無料で野球が観られる運を無下にしたくなかった。

今日の観戦は無理でも、別の日の試合に変えてもらえるかもしれない。
東京メトロの霞が関駅のプレスセンターに行く前に、JR水道橋駅に向かった。

ハガキで当選通知が来たから、別の試合に変えてもらうにしろ、友人にあげるにしろ、最悪転売するにしろ、チケットカウンターでチケットに変えてもらわなければいけない。

東京ドームに到着した私は、チケットカウンターから伸びる長蛇の列に驚愕した。

「ま に あ わ な い」

この列の最後尾に並んでチケットを引き換えている頃には、もう講演会が始まっている…。
とりあえず列の最後尾に並んだ。

講演会に出席するために就活用ジャケットを着て就活用パンプスを履いている自分が、オレンジのユニフォームまみれの中で悪目立ちしている気がして居心地が悪い。
雨も降っていた。
いろいろなものに耐えれそうになくて、10分ほどで列を離れた。

雨でしわしわになった当選ハガキをバッグにしまい、ライオンズについで2番目に好きだったバファローズへの未練を残し、後楽園駅へと向かった。

数年後、私は東京ドームに徒歩15分ぐらいで行けちゃう出版社に転職。東京メトロ南北線沿線に住んで、仕事終わりにお散歩がてら後楽園駅から帰ることになるんですけどね。人生ってわからないぜ。

大学4年のときに書いた作文と再会した今日

日本記者クラブの授賞講演後、ゼミ生(正確にはマスコミ就活対策グループ的なメンバー)には課題が課された。
テーマは「記者クラブ受賞講演を聞いて」。
これは、マスコミ就活で必ず課される作文試験への対策の一環だった。

ドライブに残っていたので、そのまま転載してみます。
(どんだけ野球好きなんだよ、って内容なのはどうしてかというと、読売の作文試験でも流用できるようにしているためなんです。笑)

「日の当たらない人」へ。
 2011年10月12日の朝。生まれて初めて、私は新聞を読んで泣いた。数日前、応援している西武ライオンズの石井義人選手が戦力外通告を受けたことを知り、憔悴していたときであった。その日の朝刊1面の「編集手帳」は、映画監督・新藤兼人氏の言葉から始まる。「思い切り自分を投げ出すことができれば、それが仕合わせなのである。」 戦力外通告を受けた選手らへのエールだった。ひたむきに白球を追いかけていた石井選手の姿が浮かぶ。私が思うよりも遥かにつらく、悔しく、大きな壁にぶつかり、未来が見えない不安を抱えた選手たち。そんな彼らへ向けられたコラムは、このような言葉で終わる。「人の一生は一度しかないのだから、燃えることのできるところで、燃えつきるまで燃えなければいけない。」
 2015年度日本記者クラブ賞を受賞した読売新聞論説委員の竹内政明さんは、14年間もの間「編集手帳」を書き続けてきた。竹内氏は授賞講演の際、「私のコラムは“へそ曲がり”と言われる」と語った。幸せな人間は放っておいてもいい。日の当たらない人、不幸せな人にこそより多くの言葉をかけたいのだ、と。
 ふと、高校生の頃に読んで泣いてしまったコラムを思い出す。今でも忘れられない、「好きな道に思い切り自分を投げ出した、その誇りを胸に、新たな一歩を踏み出してほしい」という文章は、竹内さんの思いが詰まったものだったと知った。石井選手はその後、2012年に巨人に移籍する。「代打の切り札」としてチームを優勝に導き、CSファイナルステージではMVPに輝いた。「編集手帳」に心が救われた人は、数えられないほどいるだろう。石井選手も、その一人だったのではないだろうか。
 「『編集手帳』のような文章を書いて人に読んでもらいたい」と思ったのが、新聞記者を志すきっかけだった。誰かの「再起を祈る」記事を書き、そしてその思いを届けたい。

「竹内さんを目指したい」と再確認したこれから

読売新聞には受からなかった。
ものすごくつらかった。

でも、地元紙に運良く拾われて、憧れていた新聞記者になった。

新聞記者にはなれた。でもすぐに、私はそこで戦うことを自ら辞めた。

夢とか目標とか。努力とか向上心とか。
そんなものは全部、社会の波に揉まれて海の藻屑となった。笑

就活中のESでとか、作文とか読み返すと、総じて青臭い。
それはなぜかと言うと中身がないから。
そして、自分には新聞記者への適正がなかったと身を持って知っているから。
何度も過去の自分の夢や目標に裏切られてきた。

でも、この「記者クラブ受賞講演を聞いて」の作文は、「新聞記者になりたい」とは書いていなかった。
過去の自分に裏切られなかった
なんか、それが少し救いだった。

「彼みたいな文章を書きたい」って思っていることは、今でも変わらない。
むしろフリーランスになった今が一番、その夢に近いところにいる気がしている。

5年前の自分はこう言っていた。

誰かの「再起を祈る」記事を書き、そしてその思いを届けたい。

まずは、フリーランスとして再出発した、
自分自身の再起を祈るためにこの記事を。

BOOK Information

名文どろぼう
著者:竹内政明
出版社:文藝春秋
出版年:2010/3/18


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