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高山羽根子『如何様』

好きな友達に似ている雰囲気の人を一瞬で「好意的な人物」にカテゴライズする。好きな音楽を見つけたくてはまったジャンルの音楽を聞き漁り、似たような曲を探す。あの本を初めて読んだ時の感情を得たくて同じような物語を探す。翻訳された物語を原文、本物で読みたいと思う。値段は張るけど、たくさんある同じようなデザインのものではなくて、本物の、あのブランドのあの靴が欲しい。
私は日々偽物や本物を探して、求めている。
ではいったい「本物」とは何なのだろうか。もしも、偽物と本物が寸分違わずできているとしたら、本物に内在する価値とは何なのだろうか。そこに存在する、物語や想い、歴史だろうか。
しかし本当にそんなものは存在しているのだろうか。物体は、物質からできた物体にしかなり得ないのではないか。だとしたらそこにある種都市伝説めいた、幻みたいな「想い」とか「物語」なんてものが入り込む余地はあるのだろうか。
もし、有名な絵画と全く同じ成分・量の顔料を使用し、全く同じ位置に全く同じ角度の線を描いたら、それは果たして偽物なのだろうか。さらに、その偽物を描いた人が、本物が作られた時の物語や想いまでコピーしたとしたら、何をもって偽物とするのだろうか。または、偽物の方が素晴らしい物語や想いを含有しているとしたら?
私は高山羽根子さんの、何かを成し遂げようとして、成し遂げられた時の清々しくはっきりした感情よりも、成し遂げることができず、または成し遂げることをやめて言葉では言い表せないようなその人にしか分からないような感情の持たせ方の小説が好きだ。私みたいに考えるのが趣味みたいなキモい思想人間にとってはきっぱりとした結末を与えない物語は格好の餌である。
と言ってみたところで、また話が戻り、この私の言葉では言い表せないような感情ウンタラカンタラという部分によって先に述べた都市伝説めいた、幻みたいな「物語」「想い」の存在を図らずも自分自身認識しているということにはならんだろうか。
結局、陳腐な最後で嫌なのだが、何が本物か、何に価値があるかは、自分がどこに価値を感じるのか?という極めて主観的・個人的な部分に集約せられるのではなかろうか。

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