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他者の痛みに即座に反応する能力

がんになったことを人に伝えたとき
びっくりした,たいへんだ,どうしよう
心配だ,いますぐ行く,電話する
こっちのことは任せて,できることがあったら言って

などなど,いろんな反応があった

どれもこれも,私にとっても
その人の気持ちが伝わってきて
申し訳ないながら,とてもありがたいことばだった

けど,いま振り返ると,いくつか
自分にとっては「?」となる反応の一群があった

それは,最初のリアクション,第一声で

「なにがあっても,なんとかなるでしょ」
「分かった。了解」
「手術できるってことは,治るから良いでしょ」

みたいなことばを
ひとことだけ返してきた人々。
詳しいこともきかない,それだけ
(私の父を含め,壮年の男性に多かった)

そういう方々へは,ん,なにそれ?と思うし
それ以上は,その場では話せなくなる
(ちなみに父は,メールではそんな感じだったけど
後日会いにきてくれて,そのときマインドフルに話をきいてくれた)

このことと関連して,昨日の主治医の診察で
自分が心地良いと思ったことが何だったのか
少しずつ分かってきた

昨日,主治医は「痛くないから」と言って刺した注射を私が
「痛い」と言ったとき
即座に「痛い?!」と反応して
様子を観察して「今も痛い?」と質問した

私は,痛みとかネガティブな要素について,自分が訴えたとき
そのまま受け取ってもらえること,一緒にいてもらえることに安心する
(それが医師だったら尚更)
だから,この反応に安心した

実はこれと同じことが,手術前にもあった
がんのある箇所を触診してもらったとき
「ここにあるね」と触りかけたとき
いたいんです,と言うと先生は
「痛いんだ」と復唱して確認した
それだけなんだけど,ほっとしたということがあった

で,思い出したのだけど,いまの医師に担当してもらう前
若い女性の医師に担当が決まってた(A先生とする)
自分も前向きな気持ちで委ねようと思ってたんだけど

その,初回の診察日,A先生が腋の下からリンパ液をとるとき
注射針をさして,なにかをぐるぐる回しているタイミングで
針が動くのか知らないけど
体内がひきつれたように感じて
私は「痛っっ」と声を挙げてしまった
けれどA先生は,その声に一切反応せず
(マインドレス?施術に夢中になっていた?やりきらないといけなかった?理由は分からない)
私からすると「痛い」という訴えを無視したまま
A先生は最後まで,自分のやろうとしたことをやってしまった

それだけなら,まだいいが
針を抜いてから,急に同情したような声を出して
私の耳元に来て「痛いの嫌ですよね・・・」と言った
私はそれを見て,ぞっとした

ダメだ,自分は痛みを訴えた瞬間に,
きこえてるのに無視されるのは嫌だ
それから,そのあと取って付けたような同情?共感風?のことばを言われるのは耐えられない,と思った

お医者さんも,患者が苦痛を感じるのは嫌だろう
それでも痛いことをやらなきゃいけない
それが仕方ないとしても

痛いと言ったら痛いんだ,
とりあえず無視しないで
そのときに反応して,
私の痛みを存在させてくれと思う

そのことがあって,私はA先生には今後,
私の身体に苦痛を与える可能性のある何かをされるのは,
とにかくいやだ,怖い,と思ったんだった

A先生にも,緊張とか,苦手なこととか
色々事情はあると思うけど

私にとっては,ことばが無効化されること
痛みを無視されることが恐怖だったから
だから無理だったんだと,いま分かった

逆に,新しく担当してくれた今の先生をなぜ信頼できたのかというと
先生は,私の言うことばにダイレクトに反応を示してくれるから,なのかもしれない
先生は,頭の中に引きこもらず
そこに現れ出る情報と対話してくれている感じがする

人より親切だとか,ことばが優しいとかいうことではない(むしろときどき怒ってるし、ダメなことは0.001秒くらいの速度でダメって言われるし、忙しいから会える日も少ないし)
ただ,その場で情報を受け取って変化していこうとする態度みたいなのが感じられるので安心する
ジャズセッションとかサッカーの試合みたいな感じで、うまくいってもいかなくても、ひととき一緒にいる、協働してる感じがする

患者と協働するって
臨床医の重要なスキルの1つなのではないか
緊張も負荷も高い仕事だろうから
そのある種の脱力というか
即興性みたいなことを身につけるのには
経験も素養も必要なんだろうと思う

自分やってきたことに置き換えて考えてみると
療育とか,カウンセリングとか
保育とか授業とか学生とのやりとりとか
そういうことになるけど
あ,そういえば,人前で歌うこともそうかも

とにかくその,マインドフルにその場でいながら,やるべきことをやるというのは実は大変だ,最初のうちは全然できない
対話しながら対応を微調整していき,
目的も遂行するっていう
そのよいバランスを見つけること

それって何だろう,そうだな,
嫌われたくないとか,失敗したくないとか思ってると
できないことなのかもしれない

目の前の人と一緒にいること
目の前の人の感情を,そのまま存在するものとして反応すること

これが意外と,出来る人と出来ない人がいるってこと
自分は,重要なことを一緒にやるときは
ああ,いま一緒にいてくれているなあと
さりげなく感じさせてくれる人がいいし
自分も,誰かといるときは頭の中にひきこもらず
そういう風に,できるだけ相手とそこにいることを感じながら
そこに居たいと思う

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