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越前朝倉氏の居城、一乗谷の歴史をご紹介(後編)
こんばんは、ゆうさいです。
今回は前回の投稿の後編です。
前編をまだお読みでない方は、先にそちらを読んでいただけるとわかりやすいので、まずはこちらをどうぞ。
1565年、足利義輝が松永久秀らによって暗殺されるという「永禄の変」が起こります。
朝倉義景さんは、大和国の松永久秀さんのもとに幽閉されていた義輝さんの弟、義秋さんの救出を助け居城のある一乗谷に迎え入れました。
義秋さんもその恩に報いるため、長年朝倉氏と敵対関係にあった加賀一向一揆との和睦を仲介し成立させるなど協力を惜しみませんでした。
その後、義秋さんはこの一乗谷で「義昭」に改名し元服します。
しかし義昭が望む上洛戦に対し、義景さんが乗り気でなかったためか、義昭さんは義景さんを見限り、美濃を支配下にして勢いがある織田信長さんを頼り越前を後にしました。
そしてこれをきっかけにして、朝倉氏も織田信長と徐々に敵対関係が深まっていくことになります。
1568年、織田信長さんは足利義昭さんを奉じてついに上洛。
上洛を果たした信長さんは、将軍である義昭さんの命令として二度にわたり義景さんに上洛を命じます。
しかし、義景さんは断固拒否を貫きます。
これが「義景さんに叛意あり」として、越前出兵への口実を与えることになり、義景さんは信長さんと幾多の戦いを行うことになります。
1573年、信長さんが3万の軍勢で近江に侵攻すると、それを迎え討つために2万の軍勢を率いて出陣。
しかし、それまでの信長さんや一揆軍との戦いが続いたことで家臣の信頼を失っていた義景さん。
ついに従妹である朝倉景鏡さんなどの有力家臣まで兵の疲弊を理由に出兵を拒否するような事態となるも無理を押して出陣。
その結果織田軍に敗北を喫し、撤退中の刀根坂において壊滅的な被害を受けながらも、命からがら10名ほどの家臣と一乗谷に帰還しました。
一乗谷に戻った義景さんが目にしたのは、すっからかん状態になった一乗谷の町でした。
朝倉軍の壊滅を知って留守を守っていた将兵の大半は逃走してしまっていたんです。
義景さんは一時は自刃をしようとしますが、家臣に止められ朝倉景鏡さんの勧めもあって賢松寺へ避難することに。
その一方で織田軍の柴田勝家が、先鋒となって一乗谷に攻めこみ、居館や神社仏閣を焼き払いました。
この放火により、一乗谷は三日三晩燃え続けたといわれています。
賢松寺へ逃れた義景さんでしたが、まさかの景鏡さんの裏切りにより寺を200騎に襲撃されたことで自刃。
41歳でした。
これにより、越前国で11代にわたり繁栄した朝倉氏は滅亡しました。
一乗谷は近年の発掘調査で当時の朝倉氏の居館や武家屋敷など跡が発見され、現在その整備がされています。
当時の風景もイメージしていただけるようになっておりますので、福井県にお立ち寄りの際は、ぜひこの一乗谷にも足を運んでみてください。
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