見出し画像

越前朝倉氏の居城、一乗谷の歴史をご紹介(前編)

越前の名門朝倉氏が11代にわたり居城とした一乗谷は、東西の幅が500m、南北3kmの谷底にある平野に居館を築きました。

谷の入口部分には土塁を築いて城門が作られ、京に近い南側は上城戸、北側は下城戸と呼ばれています。

この間の約1.7kmには、朝倉氏の居館や侍屋敷などが作られ、一大城下町が形成されていたんです。

画像1


当時応仁の乱で京の町は荒廃していたので、多くの公家や高僧・文人が避難してきたことで、この一乗谷は飛躍的に発展。
華やかな京文化が開花し「北ノ京」とも呼ばれました。

この一乗谷に拠点を置いた朝倉氏は守護代となり、1503年には国内統一のための戦いを行います。
そしてその3年後には、30万人にものぼる加賀一向一揆との戦いに勝利し見事撃退しました。
この強大な外敵の侵入という最大のピンチを切り抜けた朝倉氏は、その後の4代の孝景さんの時代に全盛期を迎えます。

最盛期には人口が1万人を超えていたといわれ、越前国の中心地としてこの一乗谷は栄えるんです。

画像2

その後も比較的平和な時代を過ごしていた朝倉氏ですが1548年、10代朝倉孝景(あさくらたかかげ)さんが死去すると、徐々に周囲の状況が変わってきます。

11代目の朝倉家当主として16歳で家督を継いだ延景(のぶかげ)さんの頃には、再び加賀一向一揆との対立が激しさを増します。

延景さんが若年であったため、従曽祖父の朝倉宗滴(あさくらそうてき)さんが政務と軍事を補佐していました。
しかし1555年にその頼みの綱の宗滴さんが死去してからは、延景さん自らが政務を執るようになります。

延景さんは1552年、時の室町幕府13代将軍の足利義輝さんより、「義」の字を与えられて義景と改名。
この義景さんが、大河ドラマ「麒麟がくる」でもお馴染みの朝倉義景さんです。
義景さんは、その後織田信長さんによって滅ぼされてしまい、朝倉家最後の当主となってしまう悲劇の人物です。

つづく


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?