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日本三大山城のひとつ「備中松山城」をご紹介(後編)

こんにちは、ゆうさいです。
今回は、前編に続き備中松山城の後編をご紹介します。
前編をまだ読まれていない方は、まずはこちらからご覧ください。

関ヶ原の戦いで西軍として敗北した毛利氏が減封となると、この地は幕府の直轄領となり、関ヶ原の戦いの功績で小堀正次さんが備中の代官として入城しました。

正次さんの妻は、浅井家の勇将で姉川の戦いで「員昌の姉川十一段崩し」の逸話を遺した磯野員昌さんです。

そしてこの正次さんの子が、「茶人大名」として有名になる小堀政一さん(遠州)。
政一は古田織部さんに茶湯を学び、後に「きれいさび」といわれる「遠州流」を創始した人物です。

また政一は、庭園作庭や普請奉行として駿府城修築を行うなど数々の公儀作事においてその才能を発揮しました。

小堀氏は政一までの二代で城や寺社の修築、城下町の整備を大きく進め、この地の発展に大きく貢献しました。

1617年には、鳥取からの移封により池田氏が城主となり、二代目の勝家さんの時に2年の歳月をかけて城郭が整備されます。
天守、二重櫓、三の平櫓はこの時の遺構といわれています。

池田氏の後に城主となった水谷氏は、残念ながら三代で無嗣断絶し改易となりました。
この時にこの備中松山城の城受け取り役になったのが、赤穂浪士で有名な赤穂藩主浅野長矩で、後に討ち入りを采配した大石良雄さんが備中松山城の城番となっています。

その後城主は何度か替わるものの、最後は板倉氏が8代続いて明治維新を迎えました。

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