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人のために生きられないASDの話

私は運が良い。人生ギリギリで落ちそうになったとき、助けてくれた人がいた。
誰かのために何かが出来る人だった。優しいなんて簡単な言葉では済まない、時々自己犠牲で苦しんでいて心配になるくらい、かっこいい人だ。

下心もなんもなく、私にちょっといいヘッドホンをくれた人がいる。ノイズキャンセリングが付いているから、人混みや電車の中、隣の部屋の住民がうるさいときでも、私を守ってくれたヘッドホンだ。嫌な音を消して、落ち着く音楽を聞かせてくれる。そんな素晴らしい世界を教えてもらった道具だ。

ある日、今日は死んでいいかと線路の上の橋に立った。このままタイミング良く落ちれたら逝ける。今日でいいと心から思った。
いい事だったのか悪いことだったのか、今は言えないけど、その時私はそのヘッドホンを持っていた。私が落ちたらこのヘッドホンも壊れるんだと思ったら、出来なかった。実行できなくてめちゃくちゃ悔しかったけど、その人に申し訳ないと思った。この人に恩を返すまでは、意地でもこの地獄を生きないと行けないと思った。
これが良いことだとはっきり言うことはできないけど、そういう人のおかげで生きているのは事実だ。

自分の身を削ることで、誰かの何かになれる人。
お仕事で忙しいのに、話を聞いて相手をしてくれる人。
自分より誰かが喜べばいいと、思える人。

素直にかっこいいと思う。私にはできないから。

人のために何かをすることで喜べる感情が、私にはない。
教育等子どもと関わる仕事、福祉の仕事、人に感謝されるのがやりがいと言われるような仕事をした経験はある。友達にも自分ができる範囲で協力した経験もある。

でも、それらが喜びになるってことはなく、どうもピンと来なかった。
子供は私がいなくても勝手に立派に成長する。私が教えなくても、出来る。たまたま私が教えただけ。
福祉の仕事もそう、利用者のために頑張って仕事はするし、喜んで貰える。もちろんそうなったら嬉しい。でも、私がやってあげたからだって思えない。私の力でそうなったとは思えない。人が喜んでる様子を見るのは、大抵の人は嫌じゃないと思う。私もその中の1人なだけ。その人のためにやったと自信を持って言えない。だって仕事だから。当たり前にやっただけ。それで喜ぶってなんか難しい。
友達もそう。友達がその時助かれば私が嬉しいから、自己満足できるから、お節介をやいてしまうだけ。友達が良い結果に結びついたことによかったねと思えても、自分にベクトルを向けて喜べない。あー、よかったね、行動したのはあなた自身だから私関係ないなーって思う。

誰かのために何かをやって、嬉しいって思えない。自分だけが得すればそれでいい。仕事だってやることやってそれなりに楽しくてお金が貰えたらそれでいい。

私が助けてもらったような、誰かを助けられる人に私はなれない。
助けてくれた人に恩を返したいとは思う。私はお金やもので返し切れるほどの資産を持っていないし、相談に乗ってあげたりする精神的な恩返しもできない。たぶん、恩返しをしたいと思っていても、出来るほどの実力がない。

助けてもらってるだけの人間が生きてるのって、上の方で生きてる人間からしたらいない方がいいとか思うのかな。

私は自分のためにしか生きられない。
だから、かっこよく生きれる人には本当に感謝している。
誰かのために行動している人がいるおかけで、今日も社会が回っている。ありがとうございます。


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