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生きていたくない

車椅子の方が映画館での出来事を𝕏にあげて賛否両論盛り上がっているのを見た。合理的配慮がどうって言って社会的な答えを考える人、投稿者は求めすぎだと叩く人、当事者はこんな現状なんだと嘆く人、従業員の立場を考えて危険だと警笛を鳴らす人、車椅子を使ったこともないのに心無いこと平気でを言う人、色々いた。
私もこのような事柄に思うところがないわけではないが、今回はおいておく。何より私は外野だし。
ただ、何が正解かは置いておいて、わりと障害者界隈では人権のあると思われる車椅子勢でも、普通の人と同じように映画を見たいと思うことでこんなにも揉めないといけないことに、生きていたくないと思った。
車椅子の方でも普通の席に座れるようにするのが今の社会の答えじゃないのは分かっている。車椅子エリアがあるから十分合理的配慮されているという意見も理解する。ただ、ある日事故や病気、あるいは先天性のなにかで車椅子で生活をしていくことになった人が、映画館という娯楽でさえ、マジョリティと同じように楽しめないのが当たり前なこと(基本的に車椅子ゾーンは見やすい場所とは言えない)に、ふんわり絶望した。足が動く私は、平気で好きな席を選べるのに、車椅子の人はそれすらまともに叶わないし、それを求めると過度な要求で合理的配慮はなされてると言われてしまう。映画館に限らず、賃貸住居も学校もショッピングセンターも駅も、健常者用に設計されている。メインの動線に階段がある設計は、メインで使う人が健常者だからだ。全員が車椅子だったらこんな設計になっていない。
マジョリティ向けに作られた社会であることが、マジョリティには見えていない。
事前に連絡をしなくても目的の駅まで電車で移動できること、メインの動線である階段やエスカレーターを使って移動できること、映画館で好きな席を選べること、事前に連絡をしなくても普通の席に座れること、字幕がなくても音楽やセリフが聞こえること、映画館どこに座る論争ができること、これらはマジョリティの特権なのである。それにも関わらずマジョリティは、障害がある人がいるとだるいからいない方がいいと、はっきり言わないだけで思っている。

車椅子の件ですらそうなのだから、発達障害や精神障害が社会から受け入れられる日なんて来ないんだろうと思ってしまった。みんなと同じように生活をしたいと思うことが、それを表明することが、いけないことのように感じてしまう。こわい。

逆に、こんなに色んな意見で盛り上がれるなら、知られない状態より希望はあるのだろうか。健常者も障害者も双方納得できる社会に近づいていると考えるべきなんだろうか。
合理的配慮すらなされていない事柄に対しては、どんどん進んで欲しいと思う。聴覚過敏の人が耳栓やノイキャンのイヤホンをつけて仕事をする、みたいなやつ。みんなの「ずるい」より優先されるようになってほしい。

今まで車椅子の方が戦って来たから、駅にエレベーターがついていたり、施設にスロープがついていたりする。声をあげなければ権利は得られないのも歴史を見ればなんとなくわかる。権利というものは、そうやって頑張って手に入れるものだ。 これらは合理的配慮の賜物と言えよう。
だが、声を上げたとて、実用性に欠けるスロープ(階段に比べて時間がかかる)を付けてこれでいいでしょ?と言った程度だ。そもそもの階段メインの設計が変わった訳では無い。
合理的配慮がなされたとて、みんなと同じようにはならない。真ん中に座りたい、通路側がいい、端っこがいいとか、選べないまま。これが社会の答えである。障害者は、こんなことをひとつひとつ受け入れて生きていくしかないのだろうか。きっとそうなんだろう。

マイノリティに対して不寛容な意見があってもいい。それが社会ならそれでいい。みんなが優しくなればいいとかも思っていない。ただ、そういう場所で私は生きていたくは無い。生きていたいと思える世の中を、作れる気がしない。見えない。
優しさや善意の話も違和感がある、そういったもので助かる人も沢山いるけど、解決策として取り入れるのは違うと思う。お礼を言わない人は助けない!みたいなの、それもまた差別的だ。お礼を言うってのが、障害者の処世術として効果的なのは理解する。だが、健常者と同じように、障害者の中にも性格のいい人もいれば、悪い人もいる。性格の悪い健常者が映画館を利用していいように、性格の悪い障害者も映画館を利用していいはずだ。性格の良い悪いで損をするのは、障害の有無に関係なく、健常者と同程度であって欲しい。
解決策を考えるなら、どこから見ても楽しめるスクリーンにする、階段を登れる車椅子を作る、全席車椅子でアクセスできる館内設計にする等だろうか。
たぶん、大きな革命が起きることなんてなくて、ちまちま重ねて進めていくことなんだろう。300年くらいしたら、車椅子の人は好きな席に座れるだろうか。

正解はあっていい。正解というか、結論がないと何も作れない。利益が出るようにやっていくのが企業だ。少数のためにコストをかけるのは難しいのが今の社会だ。でも、今の社会の正解で私は生きていたくない。私が生きていたくない社会でも、マジョリティが正解だと思うなら、それが正解なんだろう。疲れた。生きていたくない。



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