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天草騒動 「22.蘆塚知謀をもって唐津勢を破る事」

 その夜の深夜、一揆の者らは用意万端ととのったので、村の家のあちこちに火をかけ、「火事だ、火事だ」と叫び声をあげた。しかし、唐津勢は皆泥酔していて、しばらくは誰も気付かなかった。

 あちこちで騒ぎ立てるので、寺の中の原田をはじめとする人々もだんだん目をさましたものの、「きっと村の者どもが今夜の酒宴でぼやでも出したのだろう」と言うばかりであった。

 そのうち騒ぎがひどくなってきたため、だんだん様子がおかしいことに気づいて、全員起き上がり、原田が刀をわしづかみにして、「和尚、和尚」と呼んだが答える者もいない。

 「これは不審。戸を開けて外の様子を見ろ」と言っても、釘で打ち付けてあるので、すぐには外に出られない。

 少し手間取ってからやっと雨戸を破って外を見ると、飾っておいた武具は一つも無く、番人もいなくなっていた。

 「さては一揆どもにはかられたか。残念至極、槍だ、馬だ」とあわてふためいた。

 原田も、自分の具足を宗意軒に奪われて、探しても見つからないので、しかたなく素肌のまま騒ぎ立てた。

 村の家々で寝ていた雑兵どもも、この騒動で酔いが醒めたものの、重い頭をかかえてうろたえ回り、ただ騒ぐばかりであった。

 この火事は一揆の者たちへの合図にしてあったので、大手の道から蘆塚忠右衛門を大将として屈強の一揆の者らが三百余人、竹槍をたずさえ、笛を吹き、太鼓を打ち鳴らしながら、鬨の声をあげて押し寄せた。

 裏道からは千々輪五郎左衛門を大将として同じく一揆の者三百人、また、薮の中からは、原田の具足を着けた宗意軒が、「当寺の和尚と偽ったが、まことは森宗意軒なり」と名のりをあげながら、威風堂々と押しかけた。

 突然、村中にときの声が響き渡ったので、唐津勢は仰天するばかりで戦おうとする者もなく、ひたすら道を探して逃げまどうばかりであった。

 そうした中で、島田十左衛門、小寺十蔵、柴田弥左衛門の三人がようやく自分の鎧を着け、原田に向かって、「味方の油断は、もってのほかのことでした。一揆のやからは大勢で押し寄せて来ているので、今これと戦うのは難しいと思います。我々三人がまず防戦しますから、その間に下知をくだしてください」と言い置くと、槍を引っ提げて外に走り出て、寺の門前に立って大音声で、「推参なる一揆のふるまいかな。いざ武士もののふの手並みを見よ」と叫び、群れ集まった一揆の者らを無二無三に槍先を揃えて突き立て、即座に八九人を突き伏せた。

 百姓どもがこの勢いにあとずさるのを見て、寺の中から屈強の武士が太刀を抜きかざして十二三人走り出てきた。

 この時、原田伊予が味方に下知して、「一方の囲みを打ち破って浜辺の広場に出て戦え」と呼ばわった。

 これを聞いて寺の中からまた十二三人が斬って出て、名を惜しむ者らが、雑兵の先に立って鬨の声をあげながら、切先をそろえて斬って回った。

 蘆塚の手下の百姓は、心はしきりにはやっていても、真剣の勝負で武士にかなうはずもなく、すでに二十人余りが突き殺されて備えが乱れて見えた。

 蘆塚はそれを察して、「初めての合戦で百姓たちが懲りてしまってはいけない」と、弟の蘆塚忠大夫、同姓の左内と共に太刀を真っ向に振り上げて、「一揆の大将、蘆塚なりっ。勝負せよっ」と大音声で呼ばわりながら、無二無三に切ってかかった。これによって唐津勢はさんざんに切り散らされて退いた。

 それを見て竹中善左衛門がおおいに怒り、「百姓などに切り立てられて退くとは腑甲斐無い。いざ、一揆の大将に見参っ」と、大身の槍を打ち振って突いてかかった。

 蘆塚は、「こころえたりっ」と立ち向かい、竹中の槍を払い上げて、真っ向から切り伏せ、すぐに槍を奪い取って突いて回った。

 唐津勢からは西田七大夫が、「百姓とあなどるな。したたかな者もいるぞ。わしが討ち取ってくれる」と大音声で呼ばわって走って来た。しかし、そこに蘆塚の嫡子の左内が横合いから飛びかかり、西田の首をただちに打ち落とした。

 この時、蘆塚が、「進め、進めっ」と下知したので、百姓たちは蘆塚の働きに力を得て、三百余人がどっと一度に取って返した。

 この頃、大将の原田をはじめとする唐津勢はようやく本来の状態になり、中間たちに交じって百人ばかりが本堂の庭に出て大声で、「口惜しいことだ。油断して武器を奪われてしまっては戦いようがない。打ち破って駆け抜けよ」と下知したが、そのうち、裏道から千々輪五郎左衛門が三百余人を率いて現れ、寺の戸や垣を押し破り、鬨の声をあげて攻め込んだ。

 森宗意軒は槍、弓、鉄砲などをほかの場所に移させてから、寺内の各所に火をかけたので、四方にぼっと燃え上がり、辺りはまるで白昼のような明るさであった。

 一揆の者たちは誰もが抜け目なく働いていたが、なかでも千々輪五郎左衛門は、朝鮮で誉れをあらわした父の武勇を受け継いで、力量、剣術、早業、どれをとっても人より勝っていたので、真っ先に進んで横合いから打ってかかった。

 唐津勢はこれを見て、「一揆など何ほどでもない。武士の戦場での手並みを見せてくれるっ。ただ太刀打ちの勝負を致せ」と、林又左衛門、米澤九兵衛、青木忠左衛門、佐々木小左衛門、畑八郎兵衛たち十人ほどが、千々輪に打ってかかった。

 千々輪は少しも騒がず、伊勢正宗の刀を抜きかざし、打ち流し、引っぱずし、行き違い、飛び上がってしばらく戦っていたが、真っ向梨割り車斬り、当たるをさいわい薙ぎ立て薙ぎ立て切りまくった。

 米沢、林が討たれたのを見て畑、佐々木、青木をはじめとして一度に打ってかかるのを、薙ぎ伏せ、切り伏せ、枕をならべて九人まで討ち取ってしまった。この勢いを恐れてもはや近付く者はいなかった。

 千々輪に続いて、三百余人の一揆の者たちが一斉に押し寄せた。前からは蘆塚が一気に攻めかかり、うしろからは森宗意軒が激しく下知して働いたので、唐津勢は三方から攻めたてられ、心はしきりにはやったがなすすべもなく、名のある勇士三十五人がその場で討ち死にした。

 そのほかの面々はただ逃げることだけを考えて、原田に向かって、 「今となっては叶いません。ここで一揆の者に討たれるのも残念です。急いで浜辺に逃げ、深木と合流して富岡の城にたてこもりましょう」と勧めた。

 原田ももっともと同意し、なんとか寺から抜け出して山際にたどりつき、原田、大竹、小笠原、渡邊、岡部をはじめとして三十余人の雑兵と一緒に、ほうほうのていで、具足と武器を捨てて崖も谷間も関係なく、我先われさきにと逃げて行った。

 一揆の者たちが追って行くのを蘆塚が止めて、「逃げる敵を追ってはいけない。太刀、槍、なぎなた、旗、幕、馬に至るまで分捕りせよ」と下知したので、敵を追うのをやめて我先われさきに馬と武具を取り集めた。

 武士ともあろうものが一揆ごときに追い立てられ、このように見苦しい負けいくさをしたのは前代未聞のことであった。

 すでに夜も白々と明けてきたので、蘆塚、千々輪、森、有馬、布津村らが西法寺の境内に集まった。そして、初めての手合わせに勝利できたのはひとえに蘆塚の計略のおかげだと、一同感心し合った。

 さて、分捕りの品々を改めてみると、具足三十八領、長柄の槍五十筋、持ち槍四十本、鉄砲七十挺と弾薬箱、弓四十張、そのほかに、ほら貝、幕、旗指物などの類がおびただしく手に入っていたので、急いで一揆の人々に配った。馬も四十匹手に入れることができた。

 これらのうち、具足一領と、太刀・なぎなたをひと振りずつ、および、采配と、鞍を置いた馬一匹は大将のものとし、残りの具足は古老の三人をはじめとして頭分かしらぶんの面々に配った。

 その後で蘆塚が、「唐津勢はそれほど遠くへは逃げてはいまい。彼らが乗って来た軍船、早船、兵糧などがすべてここに残されている。それらを奪い取って味方の物にし、その上で逃げ遅れた唐津勢に追い付いて手柄をたてよ」と下知した。

 山の手の先鋒として有馬休意、間道は布津村代右衛門を先に立てて、総人数四千人余りが本渡ほんどの浦に押し寄せて、きのう唐津勢が乗って来た大船一艘をただちに奪い取り、一揆の者らでこれを護衛した。そのほか、兵糧や塩、味噌を積んだ船を二艘と早船を四十艘、ことごとく奪い取り、浜の住民に申し付けて船などを残らず上津村に集めさせた。

 さて、気掛かりは、ゆうべ深木七郎右衛門が、配下を引き連れて浜に出たことである。「きっとこの辺に隠れているのではないか」とあちこち探したが、まったく見あたらない。「さては前夜の敗戦で恐れをなして、富岡にひきあげたのであろう」と評議して、あとを追った。

 深木七郎右衛門は、不測の事態もあろうと前もって考えて、味方から離れて浜に陣をしいていたが、夜半過ぎに島子村の方に火の手が上がって鬨の声が聞こえるのに驚いて、

「さては、一揆どもの謀計に陥って味方が敗れたに違いない。前代未聞の恥辱である。主君への不忠の極みだ。きっと一揆のやからは勝ちに乗じて追いかけて来るであろう。わし一人で潔く一戦して討死しよう」と思い詰めて、堤の下の竹の茂みに隠れて、静まりかえっていた。

 深木の伏兵がいるのを一揆どもは夢にも知らず、先鋒の大将の布津村代右衛門が、一揆五百人を引き連れて堤の上を真一文字に駆け抜けようとした。そこに、思いも寄らぬ竹薮の中から鉄砲三十挺が筒先を揃えて打ち出されたので、一揆の者どもはおおいに驚き、「あっ、敵がいるぞっ」と騒然となった。

 そこに深木が下知して弾を次々と込めて打ち立てた。

 先に進んだ一揆の者らが二十人ばかり即座に打ち倒され、ほかの者があわてふためいて立ち止まったところに、深木が馬を躍らせて大音声で、
「天罰を知らぬ一揆のやから、深木七郎右衛門がここに待ち受けたりっ。寺の中にいた不覚者とは違うぞ。いざ者どもの眠りを覚ましてくれよう。」と言いながら、大身の槍を引きしごいて現れ出た。まことに天晴れな武者ぶりであった。

 一揆の者どもは、この勢いを恐れて近付く者がいなかった。

 遥かうしろにいた蘆塚忠右衛門がこの様子を見て、「深木は屈強な武士だ。油断すれば追い立てられよう」と、奪った鉄砲を急いで出させ、強い火薬で撃ち立てた。そのため、深木の兵は堪えきれずにいろめきたった。この機をのがさず続けて撃たせたので、深木の隊の過半数の者がここで討たれた。

 深木七郎右衛門は歯がみしてくやしがり、「卑怯なる敵のふるまいかな。厳しく攻めたてて討ち取れっ」と、大身の槍を打ち振りながら、布津村の勢の中央に馬を乗り入れて、縦横に駆け回って突き立て、たちまち二十五六人の死人の山をつくった。

 布津村代右衛門はこれを見て、「心憎い深木め。わしが討ち取ってくれるっ」と、二間三尺の鍵槍を猛烈な勢いでうち振り、突いてかかった。七郎右衛門は、「こころえたりっ」と槍を合わせ、上段下段と突きまくった。

 こちらは一揆の勇将であり、あちらは唐津の猛将なので、負けず劣らず半時あまり互いに秘術をつくして戦ったが、勝負はまったくつかなかった。こうして双方が少しづつ薄手をこうむって、どちらも戦いに疲れたので、声を掛け合って一息つくことにした。


23. 三宅藤右衛門後詰めの働きの事

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