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天草騒動 「21. 森布津村の者ども唐津勢を欺く事」

 原田をはじめ歴々のともがらは布津村代右衛門の弁舌に欺かれて、
「軍勢を村の中に入れて休息させておき、一揆の動静を窺って、もしも敵対するようなら明日征伐に行こう。」と考え、庄屋と組頭に案内させて島子村の西法寺に入った。

 その面々は、原田をはじめとして物頭ものがしらなどの諸役人が二十一人、侍が四十余人、足軽四百人、その他の雑兵が五百余人、都合一千人余りの軍勢であった。

 残る面々には浜辺や船を守らせ、安全が確認され次第西法寺に入るように言いおいて、厳重に警戒して鉄砲、長柄の槍、旗、馬印を押し立て、隊伍を連ねて寺に入って行った。

 さて、一揆方では西方寺の住職を前もって殺しておき、謀略を行おうと前もって準備を整えていた。

 評定衆のうちで森宗意軒は、昔、豊臣の御代に京都で医師として暮らしていたが、諸々の学問に通じており、武術の評判も高かったので、小西行長が招いて軍師にした者である。

 小西が討ち死にする際の遺言によって生きながらえ、ここに蟄居して切支丹宗を信仰していたが、仏教にも詳しく、僧に化けるのにうってつけだったので、今回、蘆塚と相談してこの寺の住職になりすまし、色衣いろごろもを着て七条の袈裟を掛け、数珠をもんで人々を迎えた。その姿は本物の名僧のように見えた。

 原田が先にたって本堂に上がると、宗意軒が、

「まことに武門の習いで修羅闘争のいでたち。仏地霊場もたちどころに戦いの巷となるあさましい人間界です。しかし、これもまた弥陀の利剣というべきですから、結縁のために十念(訳注 南無阿弥陀仏の名号を十回唱えること)を授けましよう。」と言って、南無阿弥陀仏の名号を唱えた。

 荒々しい武士達ではあったが、寺の中にいると何となく神妙な思いになって、あたりを見回した。

 まず本尊を見ると、正面に三尊像を並べてあり、善道と法念の両師の位牌や檀家の仏具類の何から何まで浄土宗に間違いなかったので、百姓どもの言う通りであると、疑いがやや薄れた。

 住職が重ねて言うには、

「両村の人々が愚僧の談義を聞き入れてお役人を出迎えたのは、まことに如来の御利益です。このたび三浦、上津、大江などにたむろする一揆の原因は、富岡のお役人を殺害してしまったため、罪に問われるのを恐れたのだと承っております。この罪さえお許しになれば、すぐに静まるでしょう。

一揆の四五十か村のうちには、この寺の檀家の者もあちこちに加わっておりますから、お許しがあれば明日から拙僧が走り回って百姓どもを残らず降参させましょう。和順をととのえるのは出家の役ですから、一命にかけてもとりまとめましょう。ひとまず、今晩はゆるゆると御休息ください。」と丁寧に挨拶し、

「村の人々よ、ごちそうをたくさん頼む。召しつかっていたしもべどもは、全員隣り村の者だったので、今度の騒動では親兄弟を気遣って全員ことわりなく逃げ帰ってしまい、愚僧は困り果てております。また、弟子や小坊主らも、出家は全員殺されるという噂を聞いてどこかに逃げ失せてしまいました。

この広い寺に拙僧ひとり残されてしまったため、檀家の厄介になって暮らさなければならず、今日も中間ちゅうげんの皆さんに頼んで働いてもらっているところです。もう風呂も沸いていることでしょう。酒は両村の寄合い衆がいつもたくさん持っています。このたびは非常時ですから、寺で召し上がってもかまいません。ここは浜辺で生魚も豊富に手に入ります。愚僧に遠慮なさらず料理させてお召し上がりください。」と、下心ない様子でもてなした。

 人々も心をゆるして、村から持って来た酒肴で酒宴を始めた。

 もともとはかりごとであったから、一揆衆のうちの才覚のある者が村の者に交じって骨身を惜しまず働いており、万事手回しがよかった。それで唐津勢は、「今夜のもてなしで寿命も延びるようだ。」と言いながら、くつろいで酒宴をおこなっていた。

 宗意軒はこのありさまを見て、いよいよ欺きおおせたと思ったので、

「私どもがこのように請け合ったからには、もはや何のお気遣いもいりません。軍勢のうちで浜に残っている人々を全員村にお入れになってはいかがですか。」と、声をかけた。

 なるほどそれもそうだと言って、二千人余りの者達が残らず村の中に入って来て、二百軒ほどの家々に入った。

 一揆の者たちは今夜こそ大事と走り回ってもてなし、さまざまな肴を出して酒を勧めたので、村の中のにぎわいは神事祭礼の時のにぎわいを越えていた。

 宴もたけなわの頃、宗意軒が大将の原田に向かって、

「一揆どもについて聞いたところでは、竹槍や棒、鎌などを用意するのがやっとだということです。内情がそのようでは、一揆の者たちに何ができましょうか。大切なものですから、御持参の武具などを寺の中に入れ、きれいに並べて飾りたてて威をお示しになれば、それを聞きつけただけでも降参が早まるでしょう。」と、言った。

 原田以下、誰もが大酒にうつつをぬかしていたので、「それは良い思い付き」と、端午の節句の飾り物のように鉄砲五十挺、長柄の槍七十本を寺の庭に飾りたてた。

「番人には両村の者たちをつけておけばよい。」と言って、その夜は深夜まで大酒盛りをして皆おおいに酔いつぶれ、帯をといてそれぞれ寝床に入った。笑止千万のふるまいであった。

 こうして万事都合よく事が運んで思い通りになったが、このように寄せ手が油断したのも、ひとえに蘆塚の謀計と森の弁舌によるものである。

 ところが、唐津勢の中でただ一人、深木七郎右衛門(八百石を領していた)は終始油断せず、宗意軒がしきりに酒を勧めても下戸だと言って一滴も飲まなかった。もてなしもさしてありがたがらず、人々が酒宴に興ずるのを心配して諌めていた。

 そのうち、深木はとうとうこらえかねて、「拙者は海辺に行って野陣をしようと思う。」と言って、外に出ようとした。

 酒宴に興じていた人々が止めたが承知せず、「浦風が吹いて涼しいだろうから、外に出て休息する。船には兵糧が積んであるから、放っておくわけにいかない。」と言いながら、とうとう配下の足軽三十人、家来十五人、雑兵五十人を連れて村を離れ、浜辺に出て幕を張り、兵糧を用意して堅固に守りをかためた。

 大勢いる中で一人だけこのような行動を取ったのは、すぐれたこころがけであった。

 原田伊予をはじめとする諸士は、おおいに酒を勧められて泥酔してしまい、武士は寺の中に休み、雑兵は村の家々に分宿した。

 森宗意軒が、「安心のために。」と言って雨戸を釘付けにしたが、諸士は酔っ払っていて、「律儀な住職のこころづかいだ。」と笑うばかりで、止める者もいなかった。

 こうして夜半過ぎになると一同は寝静まり、鼻をつまんでも気づかないほど熟睡してしまった。

 頃合を見計らって宗意軒は寝所からそっと起き出し、番人に指図して、飾ってある武具をうしろの薮の方に持ち出させた。鉄砲、槍、旗竿などを残らず奪い取ってから、本人は薮の裏道にひそかに抜け出した。唐津勢は酔って眠り込んでいたため、それに気付く者は一人としていなかった。

 宗意軒は原田の鎧を盗んで自分の物にし、「用意万端整った。」と、ほくそえんだ。


22. 蘆塚知謀をもって唐津勢を破る事

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