見出し画像

グスコーブドリの妹 〜帝国図書館幻想〜 【幻想小説】

長い年月が過ぎて、茶色い風の吹き荒ぶ銃殺台のうえで目隠しをされていたときでさえ、彼はあのときのことを憶い出していたに違いない。
晩春の夕暮れ時、僕は大佐に呼びだされ、唐突にこう言われたのだった。

(俺と一緒に、大陸にわたらないか? この世界に真の自由と解放をもたらすことのできる新しい国をつくってみたいと思わないか?)

十五階建の建築物の最上階にある特別閲覧室。硝子の外れた窓から、夕陽が波のように打ち寄せる。金魚鉢の中で紅い尾びれが雷鳴のようにふるえた。
僕たちの誰もが、当たり前のように、帝国の夢を胸に抱いていた頃のことだった。

(帝国の建設は、我々に与えられた、使命だと思わないか?)

僕は強い慄きを感じたが、その気持ちを心の奥深くに縛りつけ、代わりにずっと長いあいだ考えていたことを口にした。

(グスコーブドリの妹は、どこに行ってしまったのだろう?)

僕がそういうと、大佐は眉を顰めた。

(僕は、この東洋一の図書館のどこかに、グスコーブドリの妹がいるようにおもえるのです。あなたは知りませんか?)

(グスコーブドリ? )

(グスコーブドリの妹です。)

大佐は舌打ちをし、僕を睨みつけた。撃鉄を起こす音が聞こえたような気がして、僕は身体を硬くした。ところが今にも引き金を引こうとしていた大佐の顔が、そのとき急に緩み、とおくを見ているような表情に変化した。

(それがおまえにとっての帝国なのか?)

彼はそういった。沈鬱な表情で僕を見ると、背中を向け、銃を握ったまま壊れた扉から静かに出て行った。

金魚の尾びれに反射する夕陽が、落雷のように見えた。水陽炎が天井に揺れていた。

取り残された僕は、しんとした螺旋階段をひとりで降りていく。夕陽がこの建物全体を染めていくのを感じた。自分の呼吸音と足音だけが聞こえ、時おり、何かが咆哮する声がどこからか遠い幻のように聞こえた。建物の二階から十四階までは書庫だった。十五階には特別閲覧室があり、円形のテーブルの中央に金魚鉢が置かれていた。一階にはコンシェルジュと展示スペース。地階にはカフェがあった。

僕はゆっくりと螺旋階段を降りていった。

書物が燃えているように見えた。それぞれの階に、それぞれの世界を表象する書物が収められている。数知れない言語による、無限の差異を持った記号の群れが、書物から剥がれ出し、浮遊し、燃えていた。
常に建設の途中にあり、ついに完成することはないであろう帝国図書館の迷路。螺旋階段は時々途切れ、その先がわからなくなる。床には不思議な起伏があり、通路は複雑な曲線を描いている。書物には不快な臭いと甘い香りが入り混じっていた。そのひとつに触れ、手に取り、ページをめくっていると、活字の間から蛇が這い出し、トグロを巻きはじめた。印度の書物を集めた一角だった。呪文に似た声が響き、虎が歩いているのが見えた。僕は書架の影に隠れ、奇抜な斑ら模様の虎が通り過ぎていくのを息をひそめて窺っていると、一瞬、その虎が大佐の姿に見えたのだった。

(大佐は書物を憎んでいた。だから、待ち合わせ場所にこの図書館を指定された時には、奇妙な気分になったものだった。)

おそらく十階当たりまで降りてきたところで、僕は鏡の存在に気づいた。広大な空間だと思っていたものが、実は鏡に映った虚像であることに気づいたのだった。書庫が無限に続いているように見えたのは鏡のせいだった。だが、どこまでが現実の空間で、どこから先が鏡の中なのか、僕には区別がつかなかった。

足音が、後ろから聞こえてくる。レースのカーディガンを羽織った少女が鏡に映っていた。首からうえがぼんやりとして見えた。少女は僕の傍を通り過ぎていったが、顔は見えなかった。その姿は前後左右の鏡に映り、鏡と鏡の間で分裂と結合をくりかえしたが、首からうえを映すことはなかった。彼女が歩いて行く先に扉がある。僕は後を追った。少女は扉を開け、外に出て行った。僕も扉を開け、抜けて行こうとすると、突然、強い風が吹き寄せてきた。

その先に通路はなかった。切断された奈落だった。下方に都市が広がっていた。まるで100階の高さから見降ろしているみたいに、それははるか彼方にある幻の都市のように見えた。空は急速に光を失いつつあったが、地上からの光を靄が映し、かえって明るさを増しているようにも見えた。

宙空からブランコの軋む音が聞こえた。

(兄さん、ブドリ兄さん。)

姿の見えない声は左側から来て、右側に消えていき、また近づいては遠ざかる。ブランコの軋みも声に合わせて動いた。

(兄さん、ブドリ兄さん。)

  ※※※

あれから5年が過ぎた
大佐のことは新聞で知ることができた。大陸にわたった彼は、自分の小隊とともに姿を消し、脱走兵として国を追われる身となった。

僕は一枚のグラビアを見たことがある。ジャングルの中の野営地のようだった。彼は日に焼け、顎のまわりに髭を生やし、茶色い旗を掲げていた。傍らには小柄な娘がいた。その娘は確かにグスコーブドリの妹だった。夢遊病者のようにしか見えなかった彼女はいつの間にか眼光鋭い革命家の妻となっていた。

それからまた数年が過ぎ、銃殺台のうえで後ろ手に縛られ、もう両眼が見えなくなっていたときでさえも、彼は、帝国図書館のあの一室での出来事を思い出していたことだろう。
グスコーブドリの妹がどのような運命をたどったのかは僕にはわからない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?