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グスコーブドリの妹(3)〜空中ブランコ〜 【幻想小説】

空き地に組み立てられた巨きなテント小屋の中で、鳥になったり、魚になったり、豹になったり、そんなことを続けていると、ネリは時おり憶い出したのだった。あの故郷の森で、兄さんといっしょに山鳩の真似をして、ポウ、ポウ、ポウ、と口を丸めながら、一日中両手を羽根のように揺らして遊んでいた日々を。森は真綿のように優しかった。

けれどもあの夏はとても寒かった。食物はすっかり底をつき木の根をほじって食べた。父さんも母さんも、飢えたけだものになって森をさまよい歩き、とうとう家に戻って来なかった。残されたふたりは壺の底の粉を舐めて暮らしていたが、よく手なづけられていた樹々はすっかりひねくれて、ネリがガラの悪い男の籠に詰め込まれて拐われていったときでさえ、見て見ぬふりをしていたのだ。

それから年月が過ぎ、大陸では戦争が始まっていた。

 (ゆやーん ゆよーん ゆやゆよん)

むすうの呆けきった鰯の頭の好奇の眼に晒されながら、長周期のブランコが揺れている。サーカス小屋は荒んだ街に一夜の幻をつくる。ネリはライオンや象と寝起きしながら、ありとあらゆる曲芸を仕込まれた。綱のうえで兎のように飛んだり、猛り狂う火の輪をくぐったり、口から真っ赤な龍を吹いたり。うまくいかないと調教師に百叩きにされた。けれどもネリは生まれつきの才覚で技を磨き上げ、十五の歳にはブランコを自在に操れるようになった。燕になって飛んだり、ドリルのように回転したり、空中にとどまったままギターを弾き、悲しげな歌をうたったりもした。そんなネリを見るために毎夜のように大勢のお客が押し寄せた。団長にも一目置かれるようになった彼女は、二十日にいっぺんはホットケーキを食べられる身分になり、ひと月に一度は街に出ることも許された。けれども夜になると馬や虎と同じ小屋で眠ったのであり、動物たちと身を寄せ合いながら暮らしていたのだった。

 (ゆやーん ゆよーん ゆやゆよん)

ブランコに揺られている間はネリの意識はどこかに飛んでいる。こことは違う場所にいる。鏡の国や書物の国をさまよい、夕暮れどきのノスタルジックな光線に包まれている。

…ああ、大佐は今夜も来ているのね。あのように立派な方がなぜこんな場末のサーカス小屋に来ているのかしら。あの人は大陸には行かないのかしら。

 (ゆやゆよん ゆやゆよん ゆやややん)

雲のうえを歩きながら、大佐の視線を感じていた。ふだんなら居眠りをしながらでもできる空中ウォーク。今日に限っては妙に緊張する。鰯の頭が群がる中に、そこだけ別の世界への扉が開いているような、大佐のカーキ色の軍服が気になって仕方がない。(大佐はわたしにピストルを向けている。わたしを狙っている。)日が沈むときのようなノスタルジックな光がひときわ強くなりネリの視界を奪っていった。少女はいつの間にか鏡の国に迷い込んでいた。むすうの書物が並んでいるそこには、鏡と鏡の間で何千倍にも増殖した書物たちがざわめき合い、ささめき合い、彼女のからだも断片になり、腕や、足や、首だけになり、鏡の中で反響し合い、やがて長周期のブランコが強い風の中で揺れていて、靄のすき間から夕焼け色の都市が見え、(兄さん、兄さん、ブドリ兄さん)忘れていたその名前を思い出した彼女は、山鳩の鳴く森の中にいたときのように口を丸め、(ポウ、ポウ、ポウ、兄さん、ブドリ兄さん)けれども帝国図書館の最上階に現れた大佐は兄にピストルを向けたのだった。大佐は表面はとてもクールに振る舞っているが実はとても嫉妬深く権力的な人間だということを後にネリは知ることになるだろう。鰯の頭たちの沈黙の中で、真っ逆さまに墜落してしていくネリの頭の中をフラッシュバックしていく音や映像の断片は彼女の肉体を離れていき、やがて純粋な思念となって重力のない世界に拡がっていったに違いなかった。

…団長の声が聞こえた。
(眼が覚めたかネリ、お前はもう3年も眠っていたんだ。大佐はお前の肉体を元に戻すために国家予算の半分に近い資金を注ぎ込んだんだ。何てバカバカしいことを、と思ったよ。そんな金があれば砂漠に新しい首都を建設することだってできる。だが、大佐はそれだけの価値をお前に認めたということだ。いや、そうではなく、もっと感情的な問題なのかもしれないが、どちらでもよいことだ。大佐はいずれ帝国の中枢を担っていく人間だからな。お前みたいな労働者階級プロレタリアートがそれに釣り合っているのか、俺にはさっぱりわからない。だが大佐はそう考えたということだ。)

ネリは目を薄っすらと開け、右手の指を一本ずつ動かしてみた。次に腕や足を浮かせてみる。足元から腹へ向かってやがて全身で呼吸をしながら筋肉や内臓の動きを感じとる。確かに自分の感覚だった。カラダは何も変わっていない。けれども何かが入れ替わってしまったような気もする。わたしは繋がっているのだろうか。故郷の森にいたときと同じ自分なのだろうか。それとも機械人形に置き換えられてしまったのだろうか。そんなことはわからない。誰も教えてくれない。

(さあ、ネリ、起きるんだ。自分の力で起きてみろ。大佐が向こうの部屋で待っている。お前はもうサーカスの芸人ではない。お前が将来にわたって稼ぐはずだった金は、すでに大佐から受け取っているから。お前はもう好きなようにしたらいい。)

ついに憧れの大佐と会うことがきる。けれども顔もよくわからない。大佐はわたしの知らない世界を生きている。わたしは世間知らずのサーカス芸人だ。ブランコのうえしか知らない機械人形だ。ネリはリノリウムの床に足をつける。ここはブランコのうえではない。どこかの病院の一室であり、惑星の大地に繋がっている建造物の中だ。けれども今にも崩れていきそうな透明な膜のうえを歩いているような気もするのだった。(彼は夢の中で拳銃を撃とうとして思いとどまった。兄はずっと彼の心を脅やかす影だった。では、わたしは彼にとって何だったのか。遊戯用の狩の獲物、それとも執務室の机の上の金魚。)ネリはリノリウムの床に足をつける。自分の足のようには思えない足を。空中ブランコのうえしか想像することができない。地面を歩くことを想像できない。けれどもこれから起きようとすることはずっと昔から知っていたことのようにも思える。あの故郷の森にいた時からずっと。

…何をぼんやりしているんだ、大佐が待っているぞ

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