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帝国図書館幻想、あるいはグスコーブドリの妹 (2)【幻想小説】

 グスコーブドリの妹がどのような運命をたどったのかは僕にはわからない。

……本当にこの書物が必要なのですか 
……私の知りたいことが書かれているのです
……ネットで見られるのでは
……それではだめなのです。本物の智慧は紙背に隠されているのです
……エレベーターなんてないですよ。わかっているでしょうが
……自分の足で行きますよ。体力には自信があります

 僕は盲目の司書から10桁の記号と銀色の鍵を受け取り、螺旋階段を登りはじめた。

 「神智学」「魔王学」「占星術」「錬金術」「秘数学」。世界の秘密を書き記した書物が各階の書架に収められていた。ここは亜細亜で最大といわれる帝国図書館である。増えつづける書物を保管するため、日々増築されている。迷宮と化したこの図書館の全貌を知っているのは、たったひとりの盲目の司書のみだった。

 僕は午前5時に出発した。目的の書物が最上階に収められていたとしても、一時間もあれば辿り着けるはずだ。
 螺旋階段を登っていく。自分の息が空間に反響している。とぐろを巻く書架に夥しい数の書物が並ぶ。興味を引かれたが、寄り道をしているわけにはいかなかった。ぼんやりしていると魔窟に沈んでしまう。書物の一冊一冊が迷宮を内蔵しているのだ。誘惑に負けた書痴たちが、魂を抜かれた毛虫になって書架の間を這っていた。僕は手すりに掴まって登った。油断していると奈落に落ちてしまいそうだ。階段は腐りかけの木道のようにも覚束なく感じられる。目指す記号だけを思い浮かべ、足もとに意識を集中させた。

 もう二時間は過ぎただろうか。まだ目的の階には辿り着いていなかった。僕は以前、登山に夢中になっていて、ずいぶん危ない経験もしたものだ。まる三日間、視界のきかない霧の中で、絶壁に張りついていたこともある。それに比べれば何てことはない、などと思いながら、奇妙な思いにとらわれはじめた。ここは何階なのだろうか。図書館は二十階建てだと聞いていたが、もうとっくに超えているように思うのだ。

 息が切れる。空気が薄く感じられる。まるで高山のようだ。冷え冷えとして乾いている。書物は砂にまみれていて、触れれば崩れていきそうだ。階段の踊り場のような空間に出る。扉があった。触れるだけで、音もなく開く。夕暮れどきみたいな光が壁から滲んでいた。板敷きになっていて、数人の男女が床に寝転んでいる。

 受付に日に焼けた男がいて、目配せをする。よく見ると、みなガスボンベみたいなものを胸に抱え、ホースを咥えていた。僕も男からボンベを渡され、ゴムホースを口に含むと、空いている床に寝ころんだ。少し意識がはっきりしたように思えた。が、すぐに眠気におそわれる。うつらうつらしながら天井を見ている。天井を毛虫が這っている。眠り込んでしまいそうだった。そのとき、僕の眼に映じたのはブランコだった。とても長い周期で揺れているブランコ。

 我に返る。ここで終わるわけにはいかない。僕は起き上がった。ゴムホースを口から外すと、息苦しくなる。鼓動が頭の中で聞こえている。扉を開けて螺旋階段に戻った。一段上がるだけでも息切れがする。階段は腐敗していた。僕のうしろから踏み板が砂のように崩れた。最上階が近いのがわかった。天井の方からほの明るい陽が差している。天窓らしかった。どうやらついに目的の階に到着したらしい。

 見まわすと、施錠された書架がいくつか並んでいる。側面に記号が刻まれていた。僕は司書から渡された記号と照らし合わせ、目的の棚を見つけると、銀色の鍵を凹みに差し入れる。山鳩の鳴くような音が聞こえた。棚がゆっくりと開いていく。蒼い背表紙が見えた。ふるえる手を差し入れ、書物を取り出す。標題の文字がかすれてよく見えない。いつの間にか手の甲を毛虫が這っていてくすぐったい。本文は5ページ目くらいから始まっている。僕は紙に眼を走らせる。ページを埋めた文字たちは、ぽう、ぽう、と鳩が喉を鳴らすような音を出し、ざわめいている。

「グスコーブドリは、イーハトーヴの大きな森のなかに生まれました。おとうさんは、グスコーナドリという名高い木こりで、どんな大きな木でも、まるで赤ん坊を寝かしつけるようにわけなく切ってしまう人でした。
 ブドリにはネリという妹があって…

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