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心の傷になりませんように

今でも覚えている小さい頃にした恐い経験ってないだろうか?私はエスカレーターの前で流れにのれなくて立ち往生した経験がある。それはいつも自分が迷子になった時で、親を見つけたいという心細さから必死に飛び乗るのだけど、うまく乗れずに流れに巻き込まれてしまい恐い!と思ったことが何度もある。

似たような光景を見ると胸が締め付けられるような思いになる。それは投影しているからだ。その傷を自分の中に感じたので、どうすれば傷にならないのかを考えてみた。

考えるきっかけは

あるショッピングモールのエスカレーターの前でベンチに腰をかけていた時のこと。

前からお父さんと2、3歳くらいの娘が歩いてきた。娘は少し歩くのが遅い。お父さんはそんな娘を気にかけつつ、エスカレーターに乗った。

遅れて数秒後、娘はエスカレーターの前で足を止めた。乗るタイミングが掴めなくて怖い様子だった。しばらくオドオドしていると、後ろから若目のお兄さんがエスカレーターに乗ろうとやってきた。それに気づく娘。追い詰められたようにエスカレーターに身を乗り出した。

すると、乗った場所が悪く、両足が引き離されるような状態になり2、3段尻餅をつきながらエスカレーターの流れに逆らうような形になった。それを見た父親がほぼ到着前の位置から娘に近づこうと逆走をしていた。

娘がある段に留まれたことを確認して、後方から他の人たちもエスカレーターに乗り始めた。

父親が娘のところに到着し手を繋ぎ、バツが悪そうにへへっとマスク越しでも笑っている感じが見て取れた。


私はその時、怒りと残念な気持ちを感じた。

なぜこのことを書こうかと思ったのかというと、あの父親の笑った感じがいろんな意味でよくないと思ったからだ。

父親本人からすると、後ろの人たちに迷惑をかけたことや、娘に近づくまでの自分の必死さが恥ずかしかったからなのかもしれない。

しかし、娘からすると、恐い思いをして一人で飛び乗り、うまくいかず恐い目にあったところを父親に笑われるという解釈になってしまうかもしれない。私ならそうなる!そして、それが心の傷となる。私はエスカレーターさえも一人で乗れない子なんだ・・・と。あるいは、こんなに恐いのに一緒に乗ってもらえない。愛されていないんだ・・・と。

いやいや、大袈裟な・・と思われるかもしれないが、人の心の傷はどんなに些細なことでも、本人がその時にどう捉えたかで出来上がるものなので可能性は十分にある。少なくとも私は似た経験をしたことを今でも恐怖体験としてしっかり覚えていて胸が締め付けられるような思いになった。

とはいえ、もちろん親に悪気はない。それは他人から見たらそうなんだけど、子どもの頃というのは、親が全く意識していない言動で〇〇だから私は愛されないんだと勝手に傷ついてしまうことがある。

どうすれば傷にならないか

この女の子がどう思ったのか、感じたのかは分からないけど、まず、ベストは一緒にエスカレーターに乗ってあげること。そりゃそうだ。後は、娘のところにたどり着いた時に、「大丈夫だった?」と気遣いの言葉があればよかったのかなと。「よく泣かなかったね、偉い!」など褒めることも自信になるかな。後は抱きしめて安心感を与えるとか、まあいろいろあるけど、恐いとかできなかったことに意識が向かないようにしてあげられたらよいかなと。


普通はできて当たり前と思われていることができないこと、苦手なことって誰にでもある

こういう話は身近にもある話だと思う。

でも、集団の場で何かができない人に出会った時にどんな対応をするだろうか?できないことを笑ったり、バカにしたり、急かしたりしている光景って意外に見かけることがあるのではないだろうか?

そうではなく、できるように手伝ったり、応援したり、時にはじっくり待つ。そんな優しい社会になればいいなと思うし、自分の周りからでもそんな環境にしたいと私は思う。

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