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鉄道とBRTでつなぐ、春の三陸海岸 ④4日目(釜石→八戸)

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【10】9年の時を経ての再出発 釜石→宮古

今日のトップランナー。「ポケモン」のラッピングがされている
釜石駅の構内にある転車台。「SL銀河」用だが今後どうなる?

 2022年3月29日、火曜日。
 ホテルのカーテンを開けると、もう外はうす明るくなっていた。製鉄所の煙突はもくもく煙を上げている。知らない町で迎える朝というのは、違和感もあるがやはり新鮮だ。
 昨夜買ったゼリー飲料1パック、という普段の僕ではありえない量の朝食を済ませ、ホテルのすぐ隣にある釜石駅に向かう。釜石線が出ているJRの駅舎は立派なもので、「SL銀河」にちなんだ装飾がされていた。一方の三陸鉄道の駅舎はこぢんまりとしている。
 ホームに上がると、もう4番線には久慈行きの1両列車が待っていたが、まだ誰も乗っていない。一方3番線には盛岡行きの快速「はまゆり2号」が止まっていて、こちらは3両編成で乗客もそこそこいる。快適なクロスシートでの通学というのも、なかなか優雅でいいなと思う。もっとも毎日やっていたら特別感などなくなるだろうが。
 7時50分、時刻通りに久慈行きは出発。この時間帯に釜石から遠ざかる方向に行く人は誰もいないようで、乗客は僕一人だけだ。構内には転車台があって、「SL銀河」が走っていたことをすぐに思い出した。SLは諸事情で近いうちの引退が決まってしまったが、『銀河鉄道の夜』の舞台となった釜石線も魅力多き路線、ぜひ乗りに行きたいと思う。
 昨日の快走ぶりはどこへやら、列車はいかにもローカル線といったスピードでのんびりと走る。それもそのはず、釜石駅から宮古駅までの区間の前身はJR山田線で、開業は1935年のことだ。震災前は釜石から盛岡までひとつながりの路線だったが、三陸海岸沿いを走る宮古駅までは例によって津波と火災で大きな被害を受けてしまった。気仙沼線や大船渡線と同じようにBRTでの復旧も検討されたが、どうしても鉄道で、という地元の希望は折れず、結果的に三陸鉄道に運営が引き継がれることとなった。震災から8年が経った2019年3月、釜石から宮古までが再びレールで結ばれる。
 カーブとトンネルの連続で山の間を走っていると、列車は急に減速し警笛を鳴らし始めた。何事かと思い運転席の前までやってくると、なんと線路上に鹿がいるではないか。親子かどうかはわからなかったが、たしか2〜3頭はいたので親子だったのかもしれない。僕の地元ではまずお目にかかれない光景だった。
 秘境じみた両石駅を過ぎ、開けた新しい住宅街に入ると鵜住居駅に到着。2019年秋に行われたラグビーのワールドカップでは、駅近くのスタジアムが試合会場の一つとなった。残念ながら台風の影響で1試合は中止となってしまったが、ここが国際試合の舞台となったことは、復興を進めるに当たってきっと意味のあることとなったはずだ。
 その次が大槌駅。大槌町は鮭が名産の港町で、震災の被害は非常に大きく、町役場が津波をかぶって町長含め多数の職員が犠牲になり、町政が麻痺した。
 再建は道半ばといったところなのか、駅周辺はまだ新しい建物や空き地が目立つ。大槌駅も営業再開に合わせ新たにつくられた。駅舎はNHKの人形劇に登場した「ひょっこりひょうたん島」をイメージしてつくったもので、列車からはわかりにくいが、よく見ると屋根がひょうたんの形をしている。

列車後方から復興が進む大槌の街を遠望する
海岸に沿って走る。古い路線である分車窓を見るのは楽しい

 吉里吉里、と書いて「きりきり」と読む、なかなか癖になる響きの駅に着く。井上ひさしの長編小説「吉里吉里人」に名前が出てきており、それを町おこしの材料として「吉里吉里国独立宣言」なんてものもしている。僕も作品の存在は知っていたので、どんな場所か少し気になったが、吉里吉里駅そのものはいたって普通の小さな無人駅だった。
 列車は相変わらず海と山の景色を繰り返しながらのんびり走り、本州最東端の駅である岩手船越駅でやっと乗客が2人増えた。この辺りまで来たら、宮古まで行く需要もあるらしい。
 釜石から40分強で陸中山田駅に到着。三陸海岸のほぼ中間地点にある山田町は波穏やかな町だが、ここもまた大変な被害を受けたところで、大津波とそれに関連した火災で市街地は壊滅状態となった。大槌町と同じように、街は新しくつくり直されている。決してリセットされたということではない。過去をベースに、である。
 ここで一度海からやや遠ざかり、山の比重が大きめになってくる。陸中山田駅から次の豊間根駅までは10km以上あり、これは三鉄の全区間では最も長い駅間距離となる。車窓を見てみると人家はだいぶ少なく、見えるのは木々と田畑と三陸道の高架橋くらいだ。
 三鉄になってから出来た払川駅の次、津軽石駅では列車が津波に巻き込まれたものの、木造駅舎が残った。そしてこれまた新駅の八木沢・宮古短大駅を過ぎて、宮古市の市街地に入ったところの磯鶏駅に止まり、閉伊川の長い鉄橋を最後に渡れば、宮古駅に到着だ。

【11】防波堤に守られた町 宮古→田老

連絡通路から駅の北側を見る。当時0番線が三鉄の緊急対策本部となった
横山八幡宮に参拝。旅の無事を祈った

 9時14分、宮古駅のホームに降り立った。釜石から乗ってきた列車は久慈行きで、このまま乗って行けば次の目的地にもあっという間に行けるのだが、宮古を素通りというのもなんだかもったいないので、少し寄り道することにした。
 駅前はそれなりに建物がある。普通の地方都市という感じがした。駅舎の横にある階段を上がって市役所まで歩いていると、宮古駅を上から見下ろせる。列車の来ない時間帯だから静かだ。
 市役所から国道に出て、何か面白いものはないかと歩き回ってみるが、これといったものはなさそうなので引き返す。あとで調べてみたところ、魚市場も道の駅も僕が歩いた方向とは真逆だった。地図が頭に入っていないと、方角すらわからなくなるのだな、と思った。
 図書館や裁判所の建物をぼけっと見ながら駅の方へ戻っていると、途中で八幡宮の看板を見つけた。観光でたまにはこういうのもありか、と思い行ってみることに。
 小さいながら立派な石造りの鳥居の先には、長い階段がずっと続いていた。といっても昔上った琴平のこんぴらさんに比べればなんということはない。鳥居の横には立て看板があって、読んでみると義経伝説のことだった。源義経といえば平泉で最期を迎えたことは割とよく知られている話だが、実際に平泉で死んだのは部下で、義経本人は生き延びたのではないか、というこれまたよくありそうな伝説である。そしてそれによれば、義経は北へ逃げる途中で宮古の八幡宮に立ち寄ったらしい。
 義経が本当に参拝したかはさておいて、階段を一段一段上がる。なんとかたどり着いた山の上にある本殿は、決して大きくはないものの立派で荘厳さを感じさせる。他に誰もいないのがちょっと寂しいが、静かさもまたよい。無駄足ではなかったな、と思った。せっかくなので、旅が無事に終わるようにと、二礼二拍手一礼。
 宮古駅に戻ってきて、「さんてつや」というお店でクリアファイルやキーホルダーを買い、10時40分発の久慈行きで北進を再開する。車内は観光客が多いようだ。
 震災時はちょうど止まっていた気動車が緊急対策本部になった0番線を通り過ぎ、列車はぐっとスピードを上げた。旧北リアス線である宮古駅以北は路線の開業が1970年代で比較的新しいので、快適に走れる。
 山をトンネルで突っ切り、周りに何もない一の渡駅などを過ぎていって、10時59分に田老駅に到着、ここで下車する。旧下閉伊郡田老町、今は宮古市に含まれている田老地区は、街を囲むようにして築かれていた高さ10mの防波堤を津波が超え、大きな被害を出したところだ。明治の津波では人口の8割、昭和の津波では3割を失い、「津波防災の町宣言」を出して、防災意識を高めていた田老でさえも、東日本大震災の大津波には耐えられなかったのだ。現在は新しい防波堤が建設され、街は高台に移転し、姿を大きく変えている。
 そんな田老の町に列車が走ったのは、震災からわずか9日後。三陸鉄道は当時の社長であった望月氏のもと、「動かせるところから動かす」という方針で再開が進められ、最速が3月16日に陸中野田~久慈間、その次が3月20日の宮古~田老間だった。早期に動き出したことは多くの人々を勇気づけ、復興への足掛かりになった。これこそ、三鉄が「復興のシンボル」と呼ばれる理由である。

田老駅ホーム。遠くに防波堤が見える
新築移転した田老総合事務所。三鉄の新田老駅が併設された

 田老駅のまわりは閑散としていた。去年、すぐ近くに新田老駅ができて、町の玄関口はそちらに移ったからだ。ここで降りたのは僕一人だけ。
 新田老駅までは500mほどしか離れていないので、歩いて向かった。駅は田老総合事務所という宮古市の支所のようなものに併設されていて、これもまだ新しい。まわりには災害公営住宅や小学校などもある。
 事務所の窓口で自転車を借りて、田老の街をまわってみることにした。ここまで訪れた街のいくつかにはレンタサイクルがあったにもかかわらず借りていなかったので、一度使ってみようと思っていたのだ。もっと早く気づいておけばよかったな、と後悔。背中の荷物が割と重いけれど、肩にさげていたバッグがかごに入っただけでも十分楽になった。
 国道45号をちょっと走って、道の駅に到着。売店でおにぎり2つと唐揚げのパックを買って食べた。表示を見てみると地元で作っているものらしい。どれもおいしかった。ベンチの横を見てみたらそばのスタンドもあって、そっちにしてもよかったかなと思いつつも、いつもこんなのばかり食べてちゃつまらないもんな、と割り切って考えることにした。

【12】自然の美しさ、恐ろしさ 田老→久慈

たろう観光ホテル。2階より下は津波で鉄骨以外が持っていかれた
津波到達点。東日本大震災は一番上の17mだ

 腹八分になったところで移動を再開。道の駅の裏手にはコンクリートの高い壁があって、これがかつての防波堤である。歴史上何度も津波に襲われてきた田老の町を守るべく建設され、1979年に完成したが、先の震災ではあっけなく破壊されてしまった。今も一部分は新しい防波堤に取り込まれたり、歩道として通ることができたりして、形が残っている。階段で上に登ってみると、これでも十分高いように感じる。それを越えるほどの津波が押し寄せたというのだから、なかなか様子が思い浮かばない。
 そこから自転車を走らせると、6階建ての建物が見えてくる。これが「たろう観光ホテル」の跡だ。2階より下は鉄骨を残して流失し、3階も窓が抜けていて、被害の大きさを物語っていた。他の建物が解体されていく中、このホテルはありのままの姿で震災遺構として保存されている。昨日訪れた南三陸町の防災庁舎は凄惨なものだったが、こちらも相当ショッキングな光景だ。これほどの頑丈な建物がこのような状況なのだから、他の住宅などがどうなったかは想像に難くない。本当に恐ろしいものである。
 壁のようにそびえ立っている新しい防波堤を潜り抜けて、田老漁港に出た。今日は風が強いものの港の波は割と穏やかで、のんびりしている。少し走ると氷の貯蔵施設があって、外壁に津波の到達地点が示されていた。東日本大震災は3つの地震の中で一番上になっている。この施設も相当ボロボロになってしまっていたようだ。
 その近くにこれまた津波到達点というものがある。それによれば1933年の昭和三陸地震が10m、1896年の明治三陸地震が15m、そして氷の貯蔵施設の壁にあったのと同じく東日本大震災が一番上で、17.3mとある。これ以上ここに津波の記録が刻まれないことを願いたいのだが、残念なことに自然というのはそう甘いものではない。だからこそ、過去を学んで防災、減災していかなければならないのだ。
 道路の行き止まりまで進むと、さらにその先へ遊歩道が続いている。三王岩というのがあるそうなので、自転車を置いて少し歩いてみることにした。
 遊歩道はゴツゴツした岩場の上を通っていて、下から波が岩を打つ音が聞こえてくる。トンネルのようになっているところもあって、探検しているような気持ちになった。

三王岩。左から女岩、男岩、太鼓岩
防波堤の上から眺めた田老漁港。倉庫に「真崎わかめ」の文字を見つけた

 そして三王岩の近くまでやってきた。名前の通りに3つの岩が海上にどんと鎮座していて、圧倒される。1億年以上も前の白亜紀の地層からできたというこの特徴的かつ壮観な岩たちは、幾度の津波にも耐え、力強い姿を見せている。三陸の自然名所を福島県の相馬から青森県の八戸までつないだみちのく潮風トレイルのルート上にあり、三陸ジオパークのジオサイトともなっていて、純粋な名所としては非常に価値のある場所だ。
 他にも行きたい場所はあるから次へ、と思ったら自転車の鍵が開かなくなってしまった。どうしよう、これ借りたものなのに……とあせあせしながら6~7分戦い、やっとのことで開錠。あきらめないこと、肝心である。
 風に抗いながら自転車をこいで、防波堤の上に登り漁港を見下ろしてみた。田老の町はあまり大きくないので、内海の奥まったところに広がっているのが十分わかる。そして、奥まったところにあるということは、津波がより高くなってしまうということでもあり、これは田老だけの話ではない。今までいくつか町を見てきて、それを実感した。
 田老はわかめが名産で、「真崎わかめ」という名がついている。漁港の倉庫にもわかめの文字があった。そういえば道の駅にもわかめを使ったものがあったような、なかったような気がする。田老はすぐ沖合を親潮が流れていて、栄養が豊富なのだそうだ。おかげで田老のみならず三陸はどこも漁業が盛んである。
 道の駅に戻ってきて、展示されているパネルを見る。10年の復興の歩みがざっくり紹介されているほかに、中学校での活動も取り上げられている。風化させないためには、教育現場でのこういった取り組みも、とても大事だと思う。
 そして、球場の横を通り抜けて、スタート地点の事務所近くへ。移転前、かつての事務所もまだ残っていて、「津波防災の町宣言」の碑が立っている。震災の時はすぐ下の道路も水没し、すんでのところで事務所は被害を免れていた。今後は解体して資料館を建てるということだから、また来てみたいと思う。

旧田老総合事務所。資料館として生まれ変わる予定だ
堀内駅の先の橋梁にて、太平洋を望む

 待合室の駅ノートに思いを書き残して14時14分、田老駅を出発。車内はやはりそこそこの混雑具合である。新田老駅でわずかに乗り降りがあったあとは、トンネルが連続する。ひらけて建物が増えてきたと思えばそこが駅だ。
 田老駅の3つ先、岩泉小本駅は岩泉町の代表駅。かつては町の中心部近くにJRの岩泉線が乗り入れていて、その岩泉駅が代表駅を務めていたのだが、2014年に岩泉線が廃止されてからはこちらに役割が移った。岩泉線は日本トップクラスの秘境路線として非常に有名で、全区間通しの列車は1日わずか3往復、輸送密度もJR東日本では断トツ最下位だったという。
 またトンネルが続き、築堤の上にある島越駅に到着。震災前は高架橋の上にあったが、津波で高架橋ごと流失。三鉄の職員の方々もまさかそこまでの被害になるとは予想していなかっただろう。もちろん集落も壊滅で、駅前にあった宮沢賢治の詩碑だけが形をとどめていたそうだ。駅のまわりはまだ工事が行われている。
 村の代表駅とは思えない田野畑駅からは長いトンネルを抜けて、三陸道が寄ってくると普代駅に到着。ここで列車交換を行った。次の白井海岸駅は右手に海、左手に山というロケーションで、見渡す限り建物がない秘境駅だ。三鉄一高い橋である大沢橋梁をゆっくり渡って海を眺め、さらに堀内駅の先である安家川橋梁では放送のガイドも聞くことができた。
 野田玉川駅からの十府ヶ浦海岸沿いは津波で線路が流されたところだが、復旧は早期に完了している。被害の大きさに対して3年というスピードでの運転再開が成し遂げられたのは、真っ先に動かせる区間からなんとかして動かしたこと、そしてその熱意が県を動かしたことが理由だった。
 もうすぐ、163km続いた三鉄のレールも終わる。運賃表には3780円とあった。

【13】いよいよ陸奥の国へ 久慈→本八戸

三鉄の久慈駅
「あまちゃん」では観光協会が入っていたデパートの建物

 15時31分、久慈駅に到着。これにて三陸鉄道リアス線は完乗となった。久慈は琥珀や化石といった太古の遺物が多く発掘されてきた場所のようで、駅舎には「琥珀王国」と大きく書かれている。
 そしてやはり、取り上げるべきは連続テレビ小説『あまちゃん』のことだ。2013年度の上半期に放送されたこの作品は、まさに三陸の地が舞台となっていて、久慈市は「北三陸市」、三陸鉄道北リアス線は「北三陸鉄道」として撮影に用いられた。『あまちゃん』のヒットによって、三陸の復興と町おこしも大いに盛り上がったことは、記憶に残っている人が多いだろう。
 ドラマの放映から9年が経った今でもその名残はあって、駅前デパートには撮影で使われた看板がそのまま取り付けられていたり、パネルが置かれていて記念写真を撮ることができたりする。ちなみに久慈の小袖海岸には「北限の海女」がいて、これも『あまちゃん』のアイデアのもとの一つとなったそうだ。
 駅前の図書館に入ってみると、1階のロビーにはポスターや撮影の流れなどが掲示されていて、じっくり見ることができる。ドラマで話題になった場所にやっと行けたのだなあ、とうれしく思った。

有家~陸中八木。海が間近に感じられる
工場の灯りが遠くに見えてくると、八戸の街が近づいてくる

 あっという間に時間は過ぎて、17時ちょうど発の八戸行き普通列車に乗り込む。八戸線は久慈駅から八戸駅まで64.9km、はるばる続いた三陸縦貫鉄道の最北端を構成する路線だ。
 陸中夏井駅から海沿いを離れ、いったん山に分け入っていく。時間も時間だからか、少し薄暗い。侍浜駅を出て洋野町に入り、陸中中野駅を過ぎると再び車窓に太平洋が登場。個人的にはここから陸中八木駅までの区間が車窓のハイライトだと思う。他に遮るものは何もなく、太平洋を間近に見ることができる。夕方の深い青に包まれる空も相まって美しい。有家駅は目の前が砂浜で最高のロケーションだ。陸中八木駅も下りホームの向こう側が海になっていて、とても絵になる。そこから宿戸駅にかけては岩場のすぐ近くを通っている。コロコロ車窓が変化するので、見ていて面白い。日が沈む前に走れてよかったと思った。
 種市駅に着くころにはすっかり周りが暗くなっていた。特に印もないまま、ついに青森県に入る。ずいぶん遠くに来てしまったな、と感じた。
 階上駅から先も小さい駅が続くので、乗り降りはごく少ない。ウミネコの繁殖地として有名な蕪島の横を抜けると鮫駅で、ここからは八戸の市街地に入り、乗ってくる人が一気に増える。立ち客まで出始め、都会みが漂ってきた。
 工場の灯りがぽつぽつと光る中を走り、朝市が開かれる魚市場に近い陸奥湊駅からは高架に上がる。いよいよ建物も増えてきた。

本八戸駅改札口。ICカードは使えないので銀色のラッチが現役
八戸の繁華街をホテルに向かって歩く

 18時31分、本八戸駅で下車。列車の終点である八戸駅まではあと2駅あるが、八戸市の中心部に近いのはこちらで、僕が今日泊まる予定のホテルも繁華街にある。
 駅の売店で夕食用にパスタを買い、大通りに向かって歩く。ここまでの規模の街は2日前の石巻以来なので、ビルが建ち並ぶ様子にびっくりしてしまうほどだ。
 仙台からざっと300km強といったところだろうか。長い道のりだった。明日はまた鹿島まで一気に戻っていくことになるので、ゆっくり休むことにしよう。

ー次回に続くー


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