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「本質」ってなんだ(2024/3/10)

今日の日記。

特に自己紹介はありません。
よくわからないまま、なんとなく読んでいただく中で浮かび上がる僕を
そのまま受け取ってもらえれば、
それがきっと一番僕らしい僕であろう、というような。
そういう適当な思いです。
(今日は、メルカリに出そうと思っていた五木さんの本の出品画像用の写真をそのまま持ってきました。今日は家に引きこもってましたので。。日記の内容と写真は全く関係がありませんので、悪しからず。)

今日あったこと

・読書をした
『現象学』(木田元)を読み進めた。毎日読んでる割には、もう一週間くらい経つ。まだ5分の3程度。道のりは長い。
そして、いつになったらお前は勉強を再開するんだ。教員採用試験もー言ってる間に来ちゃうよ。
はい。

今日思ったこと

現象学って、僕にとってはこれが僕の悩みを晴らさんとするものとして働く予感がしたのだけれど、どうなんだろう。

木田元によれば、少なくともフッサール現象学における現象学的還元の目的は、経験的ゆえにアプリオリで有り得ない学の根拠を正すことらしい。正すというのはしかし、無前提に立ったままに示し得る真の根拠を新たに提示するということではなく、僕たちが無自覚のうちに認識している曖昧な理念にストップをかけて、その理念がどのようにして僕たちに示されているのかというその認識における回路を明らかにすることで、すなわち世界が僕たちにどう知覚されるかを明らかにすることだと言う。それにより、曖昧だった根拠はこれが根拠たらしめる論理を得る。と言ってもそれはフッサールの中期における思想で、この超越論的態度はのちに深化を見せる。
というのも、諸々の思想の転換の中でついにはフッサールはこの「厳密学としての現象学」の構想を諦める。

まぁ、でも竹田青嗣のように
この厳密学としての現象学という理念を再度打ち立てて哲学的問いに挑む哲学者もいる。
僕は彼の『現象学入門』をこの『現象学』に先んじて読んでいたから、現象学が一つのスタンスとして物事の本質を捉えるための何より実質的な手段であると確信していた。

ただ思うのは、
現象学が(他のどの実証科学でも知覚不可能な)事物の本質を捉える、と言うが
そもそも「本質」の本質がなんなのかは問い得るのか、ということ。

それがアプリオリであるという確信が、経験によるものでないと言い切れるのはなぜなんだろう、ということ。

いや、多分それはカント以来からも誰か聡明な先人が既に明らかにさせているもののような気がするし、僕はその知識に欠けているから、それを知っている人からすれば「何を馬鹿なことを」というような問なのかもしれないけれど、

「それが「本質」である、となぜ人は言えるのか。」

現象学的還元によって、本質の知覚は可能となるのかもしれない。
つまり、人が自然的態度のうちに作り上げた主観ー客観構造から離れて、人が知覚して”しまった”ものに焦点をあててこれを理解することで、その知覚してしまっていることについて、それがどのように自分に与えられているのかを知ることができる(らしい)。

それが例えば「善」とか「美」とかといった、イデア的な観念として捉えられがちなものであっても、自分に与えられ得る限りで知覚してしまっているものをエポケーし、その与えられ方を眺めることでこの「本質」を捉えようとする。

でも、そうやって得られたように思える「本質」だって、それが自分の超越論的還元によって得られたものであるとなぜ”自分が”断定できるんだろう。


僕は確かに、カントのいう意味での
経験的な学としての人間学を哲学と呼ぶのには違和感がある。
だからこそ、より厳密な形で与えられる真理から哲学を展開する必要性には頷ける。

しかし、僕は
「なぜか心をうつ」という感化のされ方は全く持って嫌いじゃない。
むしろそうした
「なんだか吸い込まれる」ような、あるいは「なんだか落ち着く」ような人間性を現すような教師になりたいとさえ思う。

そういう”人間性”に溢れた人間の言葉には
「なんだかわからないけどそうなんだろう」
と思わせる力がある。
全く根拠は示さない。それなのに説得力がある言葉。
それは常にその人間の経験がものを言う。

僧侶の法話だって、
「阿弥陀さんがね」という言葉に重みがあるのではなく、「親鸞さんが言うように私もね」に続くような、その人間経験による言葉がこそ重みを持つように僕は思う。

つまり、人は「本質とは何か」に興味があるのではなく、「何を本質とするのか(すべきか)」に興味があるのだろうと思う。

性善説か性悪説か、
そのどちらを良しとして生きるか、(自分は)どれを”選びたいのか”に人は常に興味がある気がする。

(もちろんこれは独り言だから、勝手にゴニョゴニョ言ってるだけだけど)
そうした意味で、フッサールも
どこかに彼の無自覚な理念があって、その理念に選び取られた本質をこそ理解しようとしたのかもしれない、と思える。


何が言いたいんだっけ、、?
そうそう、もともと現象学を知りたいと思った理由があって、そのために黙々と読んでいた『現象学』なんだけど、
ちょっと疑問が生まれて、、って話だった。

現象学を知りたいと思った理由についても、またいつか書こう。

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