新卒入社した会社を1年半で辞めた私
お久しぶりです。
Shioriです。
前回書いたnoteの冒頭で昨年7月末に新卒入社した会社「ボーダレスジャパン」を退職したお話をさせていただきました。
多くの方に背中を押してもらっていたのに、いや、いたからこそなのかもしれませんが、自分が辞めたことをお伝えできずにいました。
とても時間がかかってしまいましたが、沢山背中を押してもらったからこそ、直接自分の言葉で理由を伝えたいと思ったので、こちらのnoteに記します。
また、今仕事で悩んでいる人などにも読んでいただけたら嬉しいなとも思います。
最後にはちらっと今後のことにも触れています。
長いですがご興のある方はぜひご一読ください。
1.「インドの女性差別問題を無くしたい」心からそう思った学生時代
私は大学生時代「インド」という国に出会い、人身売買や男尊女卑といったインドの暗い現実を目の当たりにしました。
初めてその現実を知ったとき、体が震え、頭にカーッと血が上るような、なんとも言えない感覚になったことは今でも鮮明に覚えています。
出会いはありきたりで、大学の講義で見たドキュメンタリー映画でした。
ここまで感情移入したのは、自身も「女だから」と、何かにつけて言われることに息苦しさを覚えていたこともあったのかもしれません。
問題の大小、グレードは違っても、生まれた環境や性別によって人としての当たり前や、私が当たり前にできているようなことが彼女たちにはできない。そんな社会の不平等さに対する怒りと悲しみと無力感が一斉に押し寄せてきました。
その出会い以降、インドにどっぷりのめり込み、大学や地元の図書館にあるインドにまつわる本を読み漁り、それだけでは満足できず、私は一人でインドに行きました。
そして就活の時期には「インドの女性差別問題を解決することを仕事にしたい」と思うようになりました。
もちろんNPOやNGOの取り組みなども考えましたが、被害者女性のケアなど問題が起きたあとのケアにフォーカスしている団体が多く、私はこの課題を根本的になくすためのアプローチをしたいと思うようになりました。
またNPOなど寄付型のモデルは一過性のように感じ、持続的・継続的にできる支援を考えていたときに「ソーシャルビジネス」というものを知りました。
大学卒業後に、私はインドの女性が身に着け、自信を得られるような下着を作るビジネスモデルを考えており、大学の教授にアドバイスをもらっていたところ、前職であるボーダレスジャパンを紹介してもらいました。
その瞬間ビビっと(私あるある)きて
「ここだ。ここしかない」
と思いました。
今はまた少し、仕組が変わっているかもしれませんが、私が選考を受けた当初は、1年間起業家としてのノウハウを学び、その後自分の考えたビジネスモデルのGOがもらえたら1,000万の軍資金で自分の事業を立ち上げられるというものでした。
金銭的なサポートはもちろん、ビジネススキルを身につけられる最高の環境だと思いました。
時は大学4年の11月。このギリギリで選考を受け、大学の卒業式の3日後くらいに内定をいただき、その2週間後には文字通り、身1つで福岡へと旅立ちました。
2.見えなくなった自分の覚悟
入社後は既存の事業部で起業家としてのマインドセットやビジネススキルをみっちり叩き込んでもらいました。
しかし、今の事業のことで手一杯で次第にインドのことと触れる機会が減ってきた私は入社前ほど、インドの社会問題に対して熱い気持ちを持てていないことにうっすら気づき始めていました。
偉大な先輩たちの背中や、目標に向かってただまっすぐひたむきに走り続ける同期たちと自分を比較しては、私なんかにインドの女性たちを救えるのだろうか?と自信を無くすこともありました。
ただ、目の前のことに全力投球
これは自分の癖だなと思います。そのせいで先のことが見えなくなってしまう。
そんな風にモヤモヤしているときに、インドで新規事業立ち上げに参画することが決まりました。と、いうか自分で志願したのですが。
行けばまた戻る気もしました。
あの時の熱い気持ち、言葉にできないあの感情。
あれが私の原動力。あれをもう一度とってきたい。
そんな気持ちでした。
3.切れた糸
インドに行ってからも毎日怒涛の日々。
仕事だけでなくプライベート面でも様々な問題が起こり、一難去る前にまた一難といった感じでした。
仕事もうまくいくことばかりではなく、雇用しているスタッフとの話し合いで「こんなところ辞めてやる!ローカルのメイドで働いた方がいいわ」
と言われたときには正直こたえました。
「この人たちは私たちが助けなきゃ」そう思ってやっていたのに。
私はただの偽善者なんだろうか?
助けたいと思っていた少女を私たちの力ではどうにもできなかったとき、あのときどうすればよかったのだろうかと正解のない問をぐるぐる続け、改めてインド社会の複雑さを感じ、自分の無力さを感じました。
事業づくりや仕事でも、自分がすること発言すること全部がうまくいかないように思える時期が沢山ありました。
プライベートではその当時一緒にいたパートナーと音信不通になったり、日本にいる大切な家族を失ったりしました。
頑張り方が間違っているのか、私が頑張るからダメなのか。
わけがわからなくなっていたと思います。
そして、頑張ることをやめたいと思いました。
4.気づいたら新卒入社した会社を辞めていた
その後の記憶は正直あまり覚えていなくて、なんて辞めると言ったのかわかりませんが、とにかく皆に納得してもらいたくて、納得できそうな理由並べてた気がします。
(すみません。嘘言ってたわけではないと思うんですけど...)
帰国する1か月前くらいに退職を決意し、帰国してから1か月は在宅で仕事をし、次の転職先などを決めることなく、8月に退職しました。
会社に貢献できずに辞めてしまったことは本当に申し訳ないと思っています。
今はボーダレスの一員ではないですが、1人のサポーターとしてボーダレスの事業を微力ながらサポートしていけたらと思っています。
5.暗黒期からの気づき
インドにいるときから、あれちょっとおかしいなと。
自分の心の調子がおかしくなっていたのですが、日本に来てから決壊しました。
しばらく引きこもり、毎日毎日変えられない過去を振り返っては泣いてばかりいました。
夜は眠れなくて、朝までずっと泣いている。
睡眠薬をもらうために精神科に通いました。
2週間待ってようやく初診予約。他の病院は1~2カ月程待つところばかり。
苦しい人間は「今」助けが必要なのに。
精神科の初診が1~2カ月待ちって、日本終わってるなと思いました。
ハローワークの隣の受付では
「うつ病なので、すぐには働けません」という方がいて
こんな人ばっかじゃん、自分も人のこと言えないけど
と暗い気持ちになりました。
そんな暗黒期を主に支えてくださったのはコーチングの先生や友達・元バイト先の方々でした。
「今まで目の前のことに全力疾走しすぎてて、これまでの経験や感じたことの整理ができていないのかも」
とコーチングの先生からはアドバイスをいただき、一緒に自分の今までの人生を棚卸し、自分が大事にしている価値観をしっかり言語化して、次の目標設定を一緒に行ってくださいました。
地元の友達は特に多くを聞かず、ただ一緒に酒を飲んで遊んでくれました。
「どんなあなたでも傍にいるよ」
そんなスタンスがとても温かく、心地よかったです。
学生時代のバイト先の店長は私が引きこもっているのを知って
「お前いい加減外でてこいや。働くでも飯食いにくるでもいいけどさ」といつもの不器用な言い方で、でも私が戻ってきてもいいような空間を作ってくれました。
少しずつ外に出るようになり、いろいろな人たちと関わる機会が増えていきました。
すると次第に薬を飲まなくても寝られるようになったし、毎日朝まで泣くことも無くなりました。
「個性とは、他人との出会いによってつくられ、他人を鏡とすることで磨かれていくもの」
これは脳科学者・茂木健一郎さんの本に書かれていた言葉ですが、私も閉じこもっていた世界から抜け出し、新しい場所・新しい人との出会いによって自分の「個性」を再度見つけ、磨くことができたから、次のステップに進むことができるのだと思います。
6.これから
1月からは新天地東京で仕事をすることになりました。
人材業界で新卒学生向けにキャリアカウンセラーをすることになりました。
この業界・職種を選んだのは、私のような人を一人でも減らしたいと思ったからです。
私は大学時代とにかく視野が狭く「インドの女性差別問題を解決する仕事がしたい。それ以外は受け付けません!!」でした。
そのくせ、自己分析や自分と向き合うことはあまりせず、自分という人間の強み・弱み、得手不得手を全く知らずに突っ走っていました。
直感や情熱が悪いとは言いません。ただ、客観的な判断や周囲への配慮なども考えた上で結論を出すことがベストだと思います。
頭が固くて自分の人生の先を見通す力のなかった私のような学生を少しでも減らしたい。少しでもその人が輝ける場所に送り出すことで、苦しい気持ちで働かないでほしい。
働くを楽しくできたら、生きることも楽しくなるはず。
私はそんな人を日本に増やしたいと思います。
「それが本当にやりたいことなの?」「インドのことはもういいの?」
これが本当に私のやりたいことかどうか私もやったことがないのでわかりません。
でも、頑張ることをやめた私が、今頑張ってみたいことに間違いはありません。
インドに携わることをしないことに、負い目を感じる自分もいました。
あれだけ言っていたのに、あの気持ちはなんだったの?嘘だったの?って。
でも、あのときの気持ちも、言葉も何一つ嘘はありません。
本当に一貫性がない人間だなと自分でも思いますが、人間に、特に私みたいな人間に一貫性を求めないでください。
一貫した人生はみんなが納得するけれど、誰かを納得させるために私は生きているのではないと思いました。
生きるということは不確実性の海を泳ぐこと。
私は新しい波がきている海をまた泳ぎはじめます。
Shiori
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