【SS】ある野良猫の話(2959文字)
結婚を前提に同棲していた恋人が出て行った。
洗濯かごの中のワイシャツ。
ソファの脇のタバコ。
うっかり忘れていったのだろう。
それらを除いて彼の痕跡はすっかり無くなってしまった。
なんともまあ、あっさりした別れだ。
31歳、女。また振り出しに戻る。
自分の荷物だけが残されたがらんどうの部屋でひとり、置いていかれたタバコをふかす。
自分を置いて進んでいくひとの背中。
あの光景を昔も見た。
天井へ昇る煙を眺めているとふと、遠い過去の記憶が蘇ってきた。
***
あれは大学3年生の頃だったから、ちょうど10年前か。
多くの学生が勉強を差し置いてサークルやアルバイト先の仲間と夜遊びを楽しむように、私も大学生というものを謳歌していた。
有り余る時間を無意味なことに費やす贅沢。
特に酒の場の高揚は何にも代えられない。
翌日の気怠さまでを含めすべてが青春だった。
当時の私は家賃が安いからという理由で片道50分もかかる下宿に住んでいたため、いつも泊めてくれる誰かを探していた。飲み会の途中で帰るのなんて絶対に嫌。あの空気を最後まで味わい尽くしたい。そうなると当然終電には間に合わない。
アルバイト先の居酒屋の同僚たちと飲んでいたときのことだ。下宿が遠いことを愚痴ると、「俺んちわりと広いから泊れば?」と言ってくれたのがシュウだった。彼は私だけに聞こえるようにそっと耳打ちしてきた。
お酒で濁った頭でも口説かれてるということは分かった。家に行ったらどうなるのかなんてことも勿論分かっていた。けれど何にも気がつかないふりをして「え、めちゃ助かる!」と、とびきりの笑顔で両手を合わせたあの頃の私は我ながら可愛かったと思う。
シュウの家は実際に広かった。所謂「実家が太い」というやつで、大学生の一人暮らしとしては珍しい1LDKの部屋で暮らしていた。
床には酒瓶や麻雀卓、ゲーム機が雑に転がされていて、妙に居心地がよかったのを覚えている。友人たちのたまり場になるのも無理はない。
飲み会で毎度終電を逃す私がなんどもシュウの家に転がり込むうち、居候のような存在になったのもまた自然な流れだった。
飲み会の翌朝に授業をサボってはそのままベッドで戯れる。そんなささやかな背徳をふたりで共有しては笑い合っていた。
「野良猫ちゃん」
家に居つくようになった私をシュウはそう呼んだ。
「......その呼び方サムいからやめてよ」
「可愛いからいいじゃん。ねぇ、にゃあって言ってみて」
「ぜーったい、嫌」
「ケチ」
「んもう、鬱陶しいなあ」
毒づく私の頬は言葉と裏腹にいつも緩んでいて、半同棲のような日常に慣れた頃にはどうしようもなくシュウに惹かれていた。
夜が昼に、昼が夜になっても誰に咎められることもない。学生という身分だからこそ享受できるその幸せを味わいつくしていた。
***
完璧な毎日に歪みが現れたのは夏が近づいてきた頃だった。大学3年生の大半が、今まで遊んできたことなどきれいさっぱり忘れたみたいに就職活動に力を入れ始めたのだ。
シュウもその例外ではなく、真っ黒なリクルートスーツに身を包んでは朝早くから企業の説明会やインターンに出かけていくようになった。一方、就活をする気が全く起きなかった私は、以前と変わらずシュウの部屋で気ままに過ごしつつ、単位を落とさない程度に大学に通うという自堕落な生活を送っていた。
「野良猫ちゃん聞いて、今日のグルディスめっちゃレベル高くて死んだ」
「……あっそ」
*
「インターンのメンバーと飲みに行くから今日遅くなるわ」
「……いってらっしゃい」
*
「ねえ、夢とかないわけ?」
「私はシュウがいればいい」
「……」
かみ合わない会話が増えた。
私一人だけが夜に取り残されていた。朝、開けられたカーテンから差し込む光が眩しくて、着実に次のステージへと進んでいくシュウが眩しくて、あんなに居心地のよかった部屋で過ごすことが少しずつ苦痛になっていった。
それでもシュウへの思いを捨てられなかった私は居座り続けた。
優しい彼は私を追い出そうとはしなかったけれど、私のことを「野良猫ちゃん」と愛おしそうに呼ぶことはなくなっていた。
頻繁に鳴るようになったシュウの電話の相手は就活で知り合った友人や企業の採用担当など様々だったが、嬉しそうに話す姿は私の知らない誰かのようだった。
***
カーテンから細く差し込む光で目が覚めた。
夜が続くことをどれだけ切望しても日は昇ってしまう。
ある朝、シュウは帰ってこなかった。
脱ぎ捨てられたワイシャツが目に入る。
昨日のインターンを終えた後、私が眠っている間に帰って来て、着替えて出て行った。分かったのはそれだけだった。
明確に拒絶されたわけではない。
だけど、私はこの出来事をシュウの無言の意思表示と受け取った。
自分にうんざりして出て行ったのかもしれないと考えるのが怖くて、逃げるようにシュウの家を飛び出した。
下宿までの50分間、私は涙を流し続けた。
大きな音は立てずとも電車内で泣く女子は勿論注目の的だ。
好奇や同情の視線にさらされながら、見せつけるように泣いてやった。
そうして、恋愛とも言い難い数か月の関係は終わりを迎えた。
***
過去の自分の痴態を思い出し苦笑する。
あの時よりずっと悲惨な状況なのに、自分でも驚くくらいにちっとも涙は出てこない。
10年の歳月は私を十分に強い女にしてくれたみたいだ。
でもたまに、あの頃の自分が恋しくなる。
声を張り上げて泣くことができた21歳の私は本当に弱かったのだろうか。
「……にゃあ」
タバコの煙を燻らせながら、10年前のシュウのリクエストに応えてみた。
声に出すとなんとも阿呆らしくて笑えてくる。
こんな悲惨な状況でも人は笑えるのだ。
手元にあるのは半分の長さになったタバコ。
そして、学生時代を想起させる底なしの自由。
「よっしゃ、いっちょやるかあ」
タバコの火が消えるまでの数分間だけ感傷に浸ったら、まずはこの部屋を自分好みのレイアウトに変えてやろう。
引っ越す気には不思議とならなかった。
ひとりでも払えない家賃ではないし、思い出のつまった部屋で過ごし続けるのも苦にならないくらいには素敵な恋人で、後腐れのない関係だった。
整理が済んだら、ベタだけど髪を切りにいこう。
大好きな友人に会いに行こう。
ついでに思いっきり笑い飛ばしてもらおう。
がらんどうの部屋にまたひとつずつ、宝物を集めていくのだ。
願わくば、あの頃の激情をもう一度。
《終》
あとがき
本作は5/26にゆにおさんとTwitterで詠み合った以下の連歌を元にしたショートストーリーです。
ルールもあやふやなまま連歌に初挑戦しましたが(色々間違えてるかも)、思いもよらないストーリーが出来上がっていくのがとにかく楽しく、濃密なひと時を過ごすことができました。
以下はゆにおさんが連歌をもとに書かれた、大人なショートストーリーです。同じ歌から違った趣のお話が出来上がるのって面白いですね!
ゆにおさん、素敵なコラボありがとうございました♡
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