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"二十歳の学生の手持ちの価値の度量衡をもってしては計量できないものが世の中には無限に存在します。"

2022年12月の投稿です
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(「何のために勉強するのか?」という質問を投げかける)彼は喩えて言えば、愛用の三十センチの「ものさし」で世の中のすべてのものを測ろうとしている子どもに似ています。その「ものさし」では測れないもの、例えば重さとか光量とか弾力といったことの意味を「ものさし」しか持たず、それだけで世界のすべてが計量でき ると信じている子どもにどうやって教えることができるでしょう。

「何のために勉強するのか? この知識は何の役に立つのか?」という問いを、教育者もメディアも、批評性のある問いだと思い込んでいます。現に、子どもからそういう問いをいきなりつきつけられると、多くの人は絶してしまう。教師を絶句させるほどラディカルでクリティカルな問いなんだ、これはある種の知性のあかしなのだと子どもたちは思い込んでいます。そして、あらゆる機会に「それが何の役に立つんですか?」と問いかけ、満足のゆく答えが得られなければ、自信たっぷりに打ち棄ててしまう。しかし、この切れ味のよさそのものが子どもたちの成長を妨げているということは、当の子どもたち自身には決して自覚されません。

「何の役に立つのか?」という問いを立てる人は、ことの有用無用についてのその人自身の価値観の正しさをすでに自明の前提にしています。有用であると「私」が決定したものは有用であり、無用であると「私」が決定したものは無用である。たしかに歯切れはいい。では、「私」が採用している有用性の判定の正しさは誰が担保してくれるのでしょうか?

問題はここからいっそう複雑になってゆきます。 この個人的な判定の正しさには実は「連帯保証人」がいるのです。

「未来の私」です。

「私」に自己決定権があるのは、自己決定した結果どのような不利なことが我が身にふりかかっても、その責任は自己責任として、自分が引き受けると「私」が宣言しているからです。
内田樹 「下流志向ー学ばない子どもたち、働かない若者たち」
講談社文庫 2009年

予備校の冬季講習テキストに使う問題の選定をしていた際に見つけた一節です。ある大学の過去問に使われていました。

自分自身、「〇〇とか受ける意味なくない?」といった恥ずかしい言動を繰り返していたのでものすごく耳が痛くなりました。

世界とも向き合い方を説明する際によく用いられる表現に、「ものさし」「レンズ」「眼鏡」などがあります。「色眼鏡を外す」「事象に応じてレンズの倍率を変える」「複数の物差しを手元に蓄える」。「自己決定」は悪ではないし、それすらできなければまともに生活もできないでしょう。ただ、自分の価値観に絶対の信頼を置くことは危険だと改めて感じました。

このプラットフォームでも色々な立場から色々な考えが発信されています。私たちでは計り知れないような問題に足を踏み込むことも少なくありません。

何も顧みずにコメントする事に対し、他人が口出しする権利は毛頭ありません。しかし、自分にとって納得のゆかない考えに触れた時、無価値に思えるものを見かけた時、わたしたちはもう少し寛容になる必要があるのではないでしょうか。あまりにも他に不寛容な態度を貫き続けると、後々債務となって私たち自身の首を締める羽目になるのではないでしょうか。

ひとまず、この本を読み始めました。この一節だけ読んでも「有用」で「価値がある」かは判断できませんから。


コメント抜粋

白黒ハッキリつけると楽でスッキリするけど、何事もグレーで頑張る
法政大学 男子学生
絶対意味ないって思ってた数学の勉強とか部分的に今資格で役に立ってる部分あるし分かんないよね
人と話すときは成長とかそういう面から見ると意味のないことをやってた時間のことが会話のネタにしやすいなって気がする
慶応義塾大学 男子学生
しかし、この記事のような内容を物差しで図られてしまってかつ棄てられる人もいるというジレンマ
法政大学 男子学生

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