Shio's ノート

(株)トトラボ代表。薬学博士。理学修士。植物療法について、自然・生活文化・科学の観点から学ぶセミナーやワークショップを「トトラボ植物療法の学校」にて開講。フィジーの植物を活かすFijianTrad、日本のJapanTrad、山梨の森の植物を活かす「みずともり」のプロダクツを展開。

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(株)トトラボ代表。薬学博士。理学修士。植物療法について、自然・生活文化・科学の観点から学ぶセミナーやワークショップを「トトラボ植物療法の学校」にて開講。フィジーの植物を活かすFijianTrad、日本のJapanTrad、山梨の森の植物を活かす「みずともり」のプロダクツを展開。

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    終焉の始まり

    一昨日、誕生日を迎えました。 一昨日は日吉のヴィヴォの家で、「エドワード・バッチ 魂の植物読書会」と「ゲーテ的自然認識の中での植物」の講座があり、観察と思考の一日でした。 そんな誕生日に心に残った言葉は「終焉の始まり」です。 ゲーテの講座では、花の世界がテーマ、ガクとつぼみを観察しました。無限に歩を進めて生長を続ける植物がそれをやめたときに現れるガクとつぼみ。それは終焉の始まりとも言えます。 つぼみには、未来の花びらが隙間なく包まれている。 その深奥には、眠っている太陽の

      • 2023年新春

        立春も過ぎて、春が始まりました。 暦の春を迎えたら、そのとおりに少し湿った空気を感じる日が数日あり、そして今日はこのあたりにも雪が降りました。 少しずつ白い色で埋まっていく風景を見ていると、まるで新しい春のためのリセットをかけてくれているかのようで、浄化の白色に包まれることを嬉しく思いました。 ゆっくりした時間を過ごしたお正月から一か月、いよいよ新しい巡りが始まったことを実感しています。 今年はうさぎ年で私は年女。12年ごとの大きな節目を迎えました。心持はあまり変わらないよ

        • WILD(野性)からWILL(意志)

          (1/19/2009記) Gary Snyderの「野性の実践」を読んでいる。彼は詩人で、ケルアックやギンズバーグらとともにアメリカのビート世代を代表する存在だ。「野性の実践」には、彼の考え方が文章の端々に詰まっていてとてもおもしろい。 言語学者でもある彼の言葉の考察はとても興味深い。彼の言う「WILD」はスピリット(魂)のようなもので、そのものに元から在る本質的な部分であると私は理解した。「WILD」の名詞形である「WILDERNESS」は「自然のままの未開の地」といった

          • 禅宗って興味深いかも

            (5/5/2003記) 京都の東福寺で『禅聖典』という本を見つけた。名前からして禅宗の聖書のようなものかと思って、お寺の方に尋ねたら「お経の意味が書いてあります。」というお答え。ぱらぱらと手にとって眺めているうちに興味が深くなってきて買ってみた。2000円也。 般若心経って誰でも一度は耳にしたり口にしたりしたことがあると思う。現代語訳(?)になっている意味を読んでみて、そうだよ、そのとおり!と相槌を打ちたいところがあちこちにあるという新たな発見をした。例の最初の「観自在菩薩

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            いま立原道造を思う

            (9/18/2000記) 昨年夏の朝日新聞に立原道造記念館ができたという記事が載っていた。なんで今ごろ?と私はちょっと驚き、記事を切抜いて手帳に挟んだ。行こうと思いながら1年が過ぎた。そして先日、夏の終わりを思わせる日にふいに行きたくなって行ってみた。立原さんの文章には夏の終わりが良く似合う。根津のあたりは夏の空気が満ちていて、東大のキャンパスでは蝉が唸っていた。 その昔、10代だった私は、建築家で詩人である立原道造に夢中だった。お年玉で立原道造全集を揃え、立原道造に関する

            羊博士の心意気に共感を覚える

            (12/10/1999記) またもや村上春樹もので恐縮です。「風の歌を聴け」のあと「1973年のピンボール」を読み「羊をめぐる冒険」まできた。かなり飽きてきたんだけれど、まだ読んでいる。北海道のいるかホテルに住む羊博士は、その昔、からだに羊が入り、役人をやめた経歴の持ち主だ。・・と、書くとかなり突飛だけれど、小説の中のお話だと思ってきいて欲しい。世の中を避けるように暮らす彼は、仲良くなるのがとても難しそうなアクの強い博士だ。が、彼の話には納得させられるところが多い。会うことが

            ひさびさに風の歌を聴け

            (11/15/1999記) 先日、仕事の帰りに近所の住吉書房に寄った。シンポジウムで、風をひらくということを考えたからか「風」という文字に目がいく。風・風・風・・風のつくタイトルの本が結構あることに気づいた。五木寛之のエッセイ集だったか「風の記憶」というのがあり、なかなかいいタイトルだな~と思った。中身は知らないが、なんとなく浮かんだ風景は、セーヌ河のほとりで(行ったことはないけれど)、またねと前夫と別れる岸恵子の姿だった。所詮、風の記憶、されど風の記憶なのだと、さらっと思い

            個々に死を強制する国という存在への恐怖

            1945年の今日3月10日は東京大空襲だった。そして5月には母のいた横浜で大空襲があった。 一瞬にして何もなくなる経験をした子供だった母は、その後、ゴルバチョフの失脚にもベルリンの壁の崩壊にも、社会が動いていく様子に敏感だった。今のウクライナの状況を母が知ったらなんていうだろうか。母の悲痛な顔が目に浮かぶ。 母とほぼ同じ世代の大江健三郎は2005年8月16日付けの朝日新聞で、戦争の理不尽さを言及している。 「60年前の夏、戦争が終わった日に日本人が感じた解放感のすぐ裏側には

            春はリルケで始まる

            3月になった。暖かな日と冷たい日が交互にやって来て、少しずつ空気が湿り気を帯び始めた。約束された生命が踊り始めるこの季節になると思い出す、一編の詩がある。 おののくに先立ちて  ひたすらに聴き入りて  静かなり  沈黙の中に 吾は繁りて  あまたなる梢もて  花咲かんとす  ものみなとリズムなして  舞い狂い歌わんがため 〜 大学生の頃に母からもらった手紙にこの詩が書いてあった。母の手紙には、続けてこんなことが書いてあった。 これは、志緒と拓緒(弟)の誕生に際し、耳もと

            振る舞いの逆行は新たなフェーズの準備

            春になったら、植物の形成意欲の講座をまた始めようと思う。 形成意欲という言葉は、生き物が、方向を持って変容して進んでいく形の作り方の中に一つの大きな目的があり、そのための意志、意欲が根本にあることを示したものだと理解している。 その講座では、一枚の葉が完成していく振る舞いと、一つの植物が完成していくときに作る葉の配列の変化を合わせてみる。すると、それらには共通する四つの活動がみられるのだが、それらが逆行していたりすることに気づく。 一つの葉が、芽として出て、伸びて広がる、

            おばあちゃんの住んでいた家

            思えば私には、ほったらかしにしてある大事な場所がいくつかある。去年の今頃のこと。その昔のおばあちゃんの家に行ってみたら、不思議な猫に出会った。なんだか不思議な動きをする、不思議な挨拶をしているみたいな猫だった。その時のこと。 今日はお墓参りに行ってきた。 父や母はお墓にはいなくて、そこにはおじいちゃんやおばあちゃんやおじちゃんやおばちゃんがいる。 久しぶりにお寺にいって、そして花をいけて、お線香をあげて・・。 静かな気持ちでお墓を眺めながら、父や母の幸せを思った。 そして、

            思いもよらないこと

            忘れられない年に書いたこと 今年は思いもよらないことが次々に起こる。お正月の4日に父が他界してもうすぐ5ヶ月になる。あの頃は冷たい空気につきぬけるような青い空の毎日が続き、そして今日は少し湿った梅雨前の匂いがしている。父がいないことは今でも嘘のようで、そのおかげで今年は基本的に哀しい。 「私は彼と12で知り合い、一緒に大人になって一緒に親になりました。」 死ぬというのはとてつもなく独りきりなことだけれど、父のために集まってくださった方々の前で母はそう言った。母の言葉を聞い

            父がいなくなった日

            1月4日はこの世から父がいなくなった日。 あれから十何年もたったけれど、あの日のことは今でも昨日のことのようで、なおかつ夢の中の出来事のようでもある。緊張感のある澄んだ夜空に月が綺麗だった。 お正月がまだ続いているようなこの日は、毎年甲府の実家で過ごしている。今年は帰ってきたのは夜だったので、弟も眠ってた。 こんな静かな場所になっちゃって。 賑やかだった私のお正月は、父がいなくなり一変し、そして母がいなくなり、また変わった。 母の魂がこの世を旅立った部屋で目を覆って

            数学を解くということ

            6月の終わりに甲府の実家に帰った。家を囲んでいる蔦は、青々と思いっきり茂って蕾を付けていた。花が落ちるときは一晩中パチパチと音がしているんだそうだ。近所のおばさんが「生命の音だね~。」と言っていたと母が言った。私はこの家で育ってきたのに、その蔦の音をまるで知らない。 何かを無心にすること、それを毎日続けて生活になくてはならない一部にすることについては、我が家では父が一番なのかもしれない。自分の中に何かを探していく修行のようなものと一番縁がなさそうな父が実は一番修行しているの

            新年明けまして、note始めます。

            明けましておめでとうございます。 2021年が始まりました。昨年は始まった時には想像しなかった様な特別な年になりました。課題も多く与えられ、辛くもありながら、新しい挑戦ができたり、自分を見つめたりといった経験もできた年でした。 今年は昨年感じたり、思ったり、考えたり、始めたりしたことを、つなぎながらより確かに、しなやかに進んでいきたいと思っています。 note、始めます。これまでに書いた文章なども少しずつアップしたりもしてみようと思っています。