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羊博士の心意気に共感を覚える

(12/10/1999記)
またもや村上春樹もので恐縮です。「風の歌を聴け」のあと「1973年のピンボール」を読み「羊をめぐる冒険」まできた。かなり飽きてきたんだけれど、まだ読んでいる。北海道のいるかホテルに住む羊博士は、その昔、からだに羊が入り、役人をやめた経歴の持ち主だ。・・と、書くとかなり突飛だけれど、小説の中のお話だと思ってきいて欲しい。世の中を避けるように暮らす彼は、仲良くなるのがとても難しそうなアクの強い博士だ。が、彼の話には納得させられるところが多い。会うことができるのならば一度お話してみたい。とりつくしまのないお話だが、「で、何?」と言われるのを覚悟で記してみたい。

君は思念のみが存在し、表現が根こそぎもぎとられた状態というものを想像できるか?地獄だよ。思念のみが渦巻く地獄だ。・・(羊博士)

それは地獄だろうなぁ。とつくづく思う。私もそんなところにどっぷりつかるのはゴメンこうむりたい。かといって表現できることがすべてとは到底思わない。修行あるのみだ。でも、いくら修行を重ねても、誰もが地獄を抱えていることは確かだと思う。(Shio)

私は羊が体内に入ってからずっとそういった羊に関する民俗学や伝承を研究し始めた。現地の人の話を聞いたり、古い書物を調べてみた。・・(羊博士)

羊博士にも、伝承ハーブ研究会に入ってもらいたい。(Shio)

日本の近代の本質をなす愚劣さは、我々がアジア他民族との交流から何一つ学ばなかったことだ。羊のこともまた然り。日本における綿羊飼育の失敗はそれが単に羊毛・食肉の自足という観点からしか捉えられなかったところにある。生活レベルでの思想というものが欠如しておるんだ。時間を切り離した結論だけを効率よく盗みとろうとする。つまり地面に足がついていないんだ。・・(羊博士)

ちょっと過激だけれど、こういった本質を見失う危険性を私も感じることがある。でも人間には、0と1の間をじっくりと辿って堪能する力が元来あると思う。(Shio)

羊博士にとっての羊とはなんだろうか。それは、元シャーマンのアマリンゴさんにとってのアヤワスカが連れてくる精霊と同じだろう。風の歌を聴くための羊は、自分でみつけてじっくりつきあいたいものだ。

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