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Day16:11年前の自分へ

今日で書く習慣1ヶ月チャレンジ、16日目となりました。折り返した!このまま走り抜きたいですね。
そして明日は雪が降るそうで。東北出身なので、別に雪にたいしてそこまで抵抗はないけれど、東京はすぐ公共交通機関がダメになっちゃうので、明日の朝と帰りがちょっと不安です。東北は雪で見合わせとかよりも、電車に鹿がぶつかって見合わせとかが多いんですよね…。東北民ならわかってくれるはず。

さて、今日のお題は、「1番大切な人」です。
ベタですね。でも、「1番」って決めるの難しいですね。
やっぱり、ベタだけれど、私は家族かなあと思います。1人に決められていないけど。許して。

私は家族との仲は良好な方だと思っています。
小学校のときに反抗期が一瞬あったけれど(家出と称して、実家の納屋に逃げ込むという最早家出ではないことをしていた)、親のことを嫌ったり、とかはないです。

やっぱり、家族とのことを振り返ると、すぐに東日本大震災を思い出します。

あの日、高校1年生だった私は、高校は午前授業で終わっていました。そして、風邪気味だったので、病院にいく、ということで、部活に行かないで家にいました(というか半分部活をサボりたかっただけ)。お母さんと、病院の時間になるまで家で過ごしていました。

14時46分。

今まで体感したことのない地震が来て、古い我が家は潰れてしまうんじゃないか、と思って、お母さんと外に飛び出しました。今思えば外に飛び出すのは危険ですね。良くない。

全然揺れが止まなくて、数分たって、やっと揺れが収まったときに、家に戻りました。
「意外と古いけど頑丈なんだな」
家の中は皿一枚落ちませんでした。その日、美術の授業で作って持ち帰った、猫の陶芸の置物も割れていませんでした。

私には当時、中学1年生の妹がいました。
「この時間なら、中学校は授業を中断して、家に帰すだろう」
そう思って、お母さんと車に乗って、家を出ました。

それが、16年間生まれ育った家との最後のお別れでした。

中学校に迎えに行くまで、いつも通っている、海沿いの道を車で走りました。道路がとんでもない地割れをしていて、「相当地震強かったんだね」と呑気にお母さんと喋っていました。
今思えば、海沿いを通っているのは危険だったなと思います。けれど、あのときは津波が来るとわかりませんでした。なぜなら、地震で、家の目の前にあった防災無線が壊れてしまっていたから。

中学校について、様子がおかしいということに気づきました。

どうやら、津波が来るらしい。

高台にある中学校からは海が見えないし、正直、これまで「津波がくる」と津波注意報が出ても、来たことはなかったので、すぐ家に帰れるだろう、と思っていました。
明日は土曜日。早く家に帰って、もう少しでクリアできるレイトン教授の続きをやりたい。
そう思っていましたが、中学校は生徒を引き渡してくれません。

一旦家に帰ろうかな、とか思っていたとき、お父さんから電話が鳴りました。
今どこにいるか、とかそんな確認の後、お父さんは「絶対そこから動くなよ!津波くるから!家なくなるから!」
と、強く言ってきました。海はここから見えないし、大したことないだろう、と思っていました。

でも、その後、携帯電話のワンセグをつけたら、映し出されたのは、住宅が海の中にある光景でした。
え、と思いました。

嘘だろう、と思いました。

そのあとはあんまり覚えていません。
ぼんやりとした記憶だけ。

空がどんどん、黒い煙で、黒く色が変わっていきました。どうやら、船の油に引火して、港で火事が起きているらしい。

徐々に雪が振り始めました。

「〇〇区で、数百の遺体が上がっている」
ラジオから、恐ろしい単語が次々と聞こえてきました。
これは現実なの?
何が起きているの?
そして、お父さんとは、先程の電話以降、連絡が取れないでいました。

電話くれたから、大丈夫だよね。
でも、もし、もし死んでいたらどうしよう?
家って流されているのかな。
これからどうなるんだろう。

空が黒い煙と、赤い炎に染まって、寝てしまったら、二度と起きれないのでは、と思っていました。

次の日の朝、色んな所からたくさんの情報が入りました。「〇〇さんのお母さんが流されたらしい」とか、「〇〇地区は壊滅らしい」とか。それを聞くたびに、お父さんなら大丈夫、と思う一方で、もし死んでいたらどうしよう。と思っていました。

そして、数十時間経ったあと、中学校にお父さんがやってきました。なんとかヒッチハイクをして、たどりついたとのことでした。

「この津波だと、家は多分流されたと思う。多分、だめだと思う」

お父さんは、その日、海沿いで働いていて、高台に急いで逃げて、その高台から、街や、人が流されていく姿を見ていました。だから、その津波の凄さを見て、家はないんだろう、と察したようでした。
心のどこかで、「自分の家は大丈夫」と思っていたので、お父さんの口からそう言われると、やっぱりだめなんだ、と泣いてしまった気がします。

数日後、やっと家の場所へ帰ることができました。

家はそこにはありませんでした。

残されていたのは、家の土台だけで、家は運がいいことに、数百メートル先に半回転流されて、潰されていました。潰された家の周りには、お小遣いで集めたワンピース全巻がグシャグシャになって散らばっていました。

「ボロい家って解体するのお金かかるんだってよ。だから、タダで解体してもらったと思えばラッキーだよ。生きてれば何でもできるから」

流されて潰れた家を見て、お父さんはそう言いました。勉強も出来なくて、昔はヤンチャだったらしいお父さんだけど、この人は強いな、と思いました。
とんでもなく前向きだな、と思いました。

お父さんは、若いときに両親を亡くしていました。
だから、人一倍「家族」というものを大切にしているというのは、節々で感じ取っていました。
だから、お父さんにとって、家族が生きていれば、生まれ育った家がなくなることなんて、ちっぽけなことだったのかもしれません。

あの日、震災の日。
家族を失うのかもしれない、と思って不安で眠れなかった夜。
停電して真っ暗の夜に、星だけが輝いていました。
あの日見た星以上のきれいな星を、私は未だ見たことがないです。
皮肉だな、と思いました。
家がなくなったり、人がたくさん亡くなっているのに、どうしてこんな日に綺麗な星を見せるんだろう、と。
もうすぐ、11回目の3月11日を迎えます。
その日が近づくたびに、生きていてよかった。家族が生きていて良かった、と思います。

あの日、部活に行っていたら、死んでいたかもしれない。
中学校に迎えに行かなかったら、死んでいたかもしれない。
お父さんの電話がなかったら、死んでいたかもしれない。 


もし、家族の誰かがいなくなっていたら。
もし、自分がいなくなったら。

そのあとの11年は、全然違うものになっていたのかもしれない。

この11年、色んなことがありました。
大学受験に失敗したり、編入試験を受けたり、社会人になって仕事つらいなとか思ったり。

でも、そうやって「目の前の出来事」にまっすぐぶつかれたのは、家族がいたからです。
いなかったら、多分、今の自分はなかった。

だから、家族に感謝したい。
そして、これからも大切にしたい。

11年前の自分へ。
大丈夫だよ。何もかもなくなっても、家族だけは残ってるよ。だから、大丈夫だよ。



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