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外傷性難聴と血尿の小4地獄(先生から虐待を受けた話)1

娘のいじめ事件が一段落したと同時にフラッシュバックした35年前。

幼い日の、辛い記憶です。

【注意】
私自身が経験した「教師からの暴行虐待」の話です。ショックやトラウマがある方は閲覧しないようお願いします。

※かなり長文になります。(約8000字あります)







1.私の小学校


私が6年間通った熊本県北にある小学校は、いわゆる被差別部落の真ん中にある小学校でした。私が在籍していたのは昭和57年~昭和63年ですので、同和地区、被差別部落、などは陰で言う人はいたけれど基本的にみな平等に教育を受けていました。
全体的にみると被差別部落とそうでない部落が半々くらいだったと思います。

小学校では道徳の時間、ほぼ「狭山事件」について勉強させられました。

たまに第二次世界大戦の戦争の悲惨さや、同和地区、いじめをやめようなどの話はありましたが、ほとんど「狭山事件」についてでした。当時収監されている石川氏に授業中手紙を書いて送ったことも、寄付を募っていたこともありました。
よく「部落差別はやめよう」「石川さんは無罪だ!」というポスターや作文を書かされた思い出があります。

内心「なぜこんなのを書かなきゃいけないの」というのと、色んな状況から「石川さんが無罪なわけないじゃん、警察に捕まってるのに」と思っていました。

2.うちの小学校の「違和感」


小学校3年のときに(この学校はなんか変だ)と思ったことがありました。
それは毎週水曜日に「学習会」というものが各被差別部落の公民館で開催され、小学校の教員が出向いて行って、その地域の児童に学校で習ったことの復習や特別授業を行う取り組みがありました。
私は被差別部落ではなかったので、「学習会」には参加できませんでした。
子どもながらに(私も先生からもう一度習いたい勉強があるのに、なぜ私の地区では教えてくれないのだろう?)と疑問に思っていました。
のちに(大人になってから)学習会は「家業の手伝いや、家庭の事情で学校に行けず学習が遅れてしまう被差別部落地域に向けて学校が配慮した取り組み」だったことを知りました。
しかし私が小学生の時分、昔のように家業の手伝いで学校を休む子供などいませんでしたし、学習会のおかげか、被差別部落と分別された地域ほど成績優秀な生徒がたくさんいました。
当時市内の少年少女合唱団に所属していた私は、他の小学校の児童と交流する機会がありました。そこで学習会の事を聞いてみたのですが、どの小学校の児童も「そんなのないよ?」と言っていました。

理解ができない私は当時の道徳作文で疑問に思ったことを素直に書くことにしました。
「なぜ同和地区では学習会があって、私たちの地域では行われないのか。それこそ差別ではないのだろうか」と。
その同時期に、初めて一緒のクラスになった男の子(被差別部落)と時々途中まで道が同じなので一緒に帰っていましたが、当時私も妹も母親が好きだった【モンチッチ】というチンパンジーのぬいぐるみと同じ髪型にされていたので
「わーチンパンジー姉妹だ!」
と茶化され頭にきて
「何よ!あんただってゴリラそっくりたい!」
といったことがありました。

作文を提出した日に、職員室に呼ばれました。
「お前は差別の意味が全然わかっていない。現に同和地区の男の子に『ゴリラ!』と言ったじゃないか。それこそ差別だ。」
と言われ当時小学校内では「最高に恥ずかしい」と言われる職員室前の廊下に立たされました。



私は意味がわかりませんでした。
先に言われたのは私達なのに。
言い返した私だけが悪いの?
相手が被差別部落の子だから?

そんな特別扱いするから差別が広がるんでしょ?
と。3年生にしては反抗的な態度だったと思います。

当時、私物である菊池桃子のポスターを後ろ黒板の上に貼り、授業中に「菊池桃子をなぜ俺がこんなに好きなのか」と「桃子ちゃん大好き💛」と言いながら延々と菊池桃子のよさについて語る変わった先生でしたので内心(仕方ない)とも思っていました。


3.担任の先生に呼び捨ててもらえなかった私の名前


小学4年のころ。
その小学校学区内の被差別部落出身で新任教員となった先生が新しく私のクラスの担任となりました。
新任式(新任教諭の紹介式)で玉虫色のスーツとリーゼント、黒いサングラスをして壇上であいさつする先生の姿は今でいう反社会的組織の人間に見えました。そして幼い私からみるとただ恐怖の対象でしかありませんでした。
さらに今となってはありえないのですが、その先生の姪っ子が同じクラスでした。
その姪っ子は容姿も小4には似つかわしくなくグラマラスで美人、運動も頭脳も明晰で非の打ちどころのない女の子でした。さらに被差別部落地域でその女の子の一族は「地主」だったらしく、家も敷地の広い洋館のようなところに住んでいました。お手伝いさんもいる、と噂でした。当時見かけない高級犬種のパグを飼っていました。そして同じ敷地内に先生も住んでいました。私は幼心に(いいなぁ、先生の親戚で同じ敷地内に住んでいるなんて。いろいろ勉強も教えてもらえるだろうし・・・えこひいきもされるんだろうな)と思っていました。

先生は最初担任になり緊張していたのか、子どもたちを「さん付け」で呼んでいましたが、自分が心打ち解けた児童から順番に「呼び捨て」するようになりました。当時私たちのクラスでは「先生に呼び捨てしてもらうため、先生の気を引く」行為が流行っており、頭の悪い生徒はへらへらとして媚を売ったり、先生が得意とするスポーツに一生懸命取り組んで何とか気を引こうとする人がたくさんいました。でも私は(そんなことをしなくても、授業も真面目に聞いて学習もこなしているのできっと評価してもらえて、すぐに呼び捨てにしてくれる)と思っていました。
4月、5月、6月・・・・。一向に先生が私を呼び捨てにしてくれる日は来ません。ついにクラスで嫌われ者のBちゃんまでも呼び捨てにされるようになりましたが、私だけは結局夏休みが明けて2学期に入っても「さん付け」で呼ばれていました。
(なぜだろう・・・。私頑張ってるのに。)
おそらくこの「自信満々な態度」が問題だったんだろうと思います。私は被差別部落ではないし実家祖父母は当時遊技業経営の看板を下ろしたばかりで裕福でした。先生のお父さん(反社)が遊技業を辞める数年前、うちの祖父の店へやってきて借金の申し込みする際、ドスをデスクに突き立てて脅し、断られていたことを大人になって知りました。すべて含めてすごく鼻につく子どもだったんだろうなと今となっては思います。


4.ぬれぎぬを着せられた硬筆展


6月。書道の授業で「硬筆」がありました。城北地域で行われる硬筆展に出すためのものでした。
当時のお手本は清書紙より小さく刷ってありました。お手本を下敷きにして写す不正行為を防ぐ役割だったと思います。

ところがその先生は、お手本を清書紙と同じ大きさに刷って週末の宿題として児童に配りました。
「宿題にしますが、お前らが不正をしないか、試すために清書紙と同じ倍率でお手本を刷ってやった。なぞらずにちゃんとやってこいよな。」
といって。
私は(なんだか変な先生だな?)と思っていました。

私は字を綺麗に書くことが得意でした。
両親は公務員で夫婦共働きでしたので下校後自宅近くにある祖父母宅で留守番をすることが多かったのですが、当時ネットも遊び道具もとくになく、テレビは祖父が独占していました。
手持無沙汰だったので、祖母が使っている「ペン習字講座」の本をみて畳に寝ころびながらお土産の箱を切った厚紙で下敷きを作って新聞折込チラシの裏に遊び半分で練習していたものでした。ぬりえとかお絵描きに近い感覚でした。
しかし祖母がその字を見て
「愛子の字は本当に綺麗ねぇ。女は字が綺麗でなきゃね。もう少し綺麗になったらのし袋書くのお願いしようかな。
とほめてくれるのがすごく嬉しかった。
これだけは誰にも負けないものを作りたかった私にとって、武器になりつつありました。


硬筆の話しに戻りますが。
お手本は手書きを印刷されたものでしたので、書き手の特徴がよく出ていました。ペン習字をばあちゃんちで遊び半分でやっていた私は講習本を見て
お手本を書く人はいろいろ違うんだな」とか
あーこの人ここに特徴書きグセがある!」
などとみつけては真似をするようにしていました。
そういった違いをみつけるのも、なんだか熊本日日新聞に日曜だけ出る「7つのまちがい探し」みたいで楽しかったのでした。

硬筆展に出品されるものは”きれいに書く”より”いかにお手本に忠実か”を問われていて、お手本の書き手の「癖」を見極めて真似をすることが重要視されていました。
私はペン習字の本を思い出しながら自分の「書き癖」を直すのもかねて寝る間も惜しんで必死に練習しました。もちろん下にお手本を敷いて練習したこともあります。清書紙は枚数が限られていたのと不正行為を先生が見つけたがっていたので学校から渡された練習紙(清書紙をコピーした紙)でやっていました。しかし数枚書いたところでやめました。
私にとってその練習方法は全く意味がありませんでした。
なぜならお手本を下に敷き、練習紙を重ねて上からなぞると何度書いても「ためらい線」ができて全く自分の思うように仕上がりにならなかったから。
結局なぞって練習するのは断念し、とにかくお手本を1マス1マス丁寧に折って練習紙をできるだけ近づけ一字一字見比べるようにして練習を重ねました。
日曜日に緊張して清書を3枚書いたのをおぼえています。
手が汗でぬるぬるになり、小指の下の手のひらが真っ黒になり、指の感覚がなくなるまで練習したのでくたくたでした。

宿題提出の月曜日。
先生の机に硬筆を提出したあと、私の事を嫌いなRちゃん(被差別部落の児童で先生宅のはす向かいの子)が先生の机の前に数人友達を呼んでひそひそ話していました。
ひそひそ話から仲間はずれにされるのが嫌いだったので聞きに行ったら、私の提出した硬筆の清書が机の中央に置いてありました。

Rちゃんに
「愛子ちゃんこれ、お手本なぞったでしょ?ねぇみんな、これなぞっとるよねぇ?」
と言われました。

私はびっくりして
「え!何ば言ってると?そんなことしとらん!」
とキレ気味に言いました。
だって毎日何時間も何時間も土曜も日曜も、練習して。清書もようやく3枚書いて。やっとできた会心の3枚のうちの1枚だったのに。
それをなぞっただなんて・・・。ひどい。
いくら私の事を嫌いでも、それはないんじゃない?
Rも字が綺麗で、校内硬筆展の代表常連でした。そして城北硬筆展にも毎年出品されていました。各小学校に順番に張り出される【巡回特選】も常連でした。今回も例にたがわず代表がかかっていました。どうにかして私をクラス代表にしたくなくて濡れ衣を着せたんだと思いました。
だって、私は家で書いたのに。あんた見てないじゃん、私の努力の何を知ってるんだよと思っていました。

すると給食後、
「愛子さん。昼休みにこちらへ来てください。」
と先生の机に呼ばれました。
行くと机上に私の清書がありました。

みんなが運動場やらどこかに出払ったのを見計らって
先生は半笑いしながら

「お前さぁ。これなぞったろ?正直に言ってみ。」

と言われました。
さっきもあいつらに言われたけど・・・

「なぞっていません。」
と返すと

「わかっとるって。Rも、みんなもいいよるて。お前がなぞったって。ほら、お前のとお手本重ねてみたらほとんど同じじゃにゃーか。な?言えって正直に。」

とお手本と私の清書を重ねながら言われました。

でもなぞって書いていないのは事実なので、
「ちゃんと1字1字重ねて見てください!なぞってません!」
と強く言い返しました。

最初は内心「手本を下敷きに丸写ししたと思われるぐらい精巧にお手本を書き写してしまったのか」と誇らしげな気持ちもありましたし、先生がいつも「愛子さん」というのに「お前」と言ってくれたことが、何だか少し距離が縮まったような気がして嬉しかったです。でも1字ずつみるとお手本と線がかなりずれていました。それは同時に私にとってショックでもありました。(まだまだ練習が足りないのに清書してしまったんだと・・・)。
しかも先生はお気に入りのRちゃんの話だけを聞いて鵜呑みにしたのでした。

一字一字、宿題として提出した3枚を全部見終わると先生は
「ああ、よー見たら位置ずれてんなぁ。なぞってねぇか。Rの字の方が綺麗だし。あんまりいい出来でもにゃーしね。よかったなー愛子さん、疑いが晴れて。次からはもう紛らわしいことすんなよ。もう行っていいぞ。」

と吐き捨てるような、今にも舌打ちしそうな声で言いました。

放免された私は(勝手に疑ったのは先生じゃないか)と思ってモヤモヤしたのと同時に「この先生は私の事が嫌いなんだ」とはっきり思うようになりました。


5.ブタの絵事件(難聴になった日)




担任の先生はスポーツが得意で、体育の授業がきつめでした。体育の授業が苦手だった私は「体育服を家にわざと忘れる」手段でずるして体育を見学することもありました。持病の喘息でマラソンは余計にきついけれど、喘息を治療するために「天草の喘息学校に入れてほしい」と親に話しても「金ないし双子の二人入れるの無理」というし、熊本日赤病院に喘息の治療で通院していたのですが「長距離走や激しい運動をして酸素を取り入れる治療をしてください」と言われる始末。いやでいやで仕方がない長距離を走れだって?さらに運動音痴なので跳び箱はうまくとべなくていつも先生から
「お前いつもドンケツだな。ドジだなー」
と言われていました。
あと、先生の姪っ子は体育が上手で先生からいつも褒められていたのが気にくわないのもありました。
他の教科の授業中でも先生の姪っ子はスムーズに先生が答えてほしい解答をずばっと言ってキラキラしていました。
「◎◎(姪っ子の名前)!お前はやっぱりすごいな!さすが俺の姪っ子」
としょっちゅう大絶賛される様子を見て(私はどうせ親戚じゃないからああいう風には言ってもらえない)というやっかみもありました。

10月。長距離走の練習が始まり、イヤでやはり常套手段の「体育服を家にわざと忘れる」方法で体育を見学しました。同じ時間にいつもはあまり話さないおとなしめの女子児童2人が生理と腹痛で体育を見学していたので3人になり、先生が「お前ら3人だし、校外走るから教室にいろ。」と言われ教室で待機することになりました。

その2人はおとなしめ同士で仲が良く、いつも2人でいました。休み時間はどちらかの机で自由帳を広げてお絵描きをしていてクスクス笑っていて楽しそうでした。なので私は(この人たちと仲良くないから、この授業中は気まずくなってしまう・・・。何とかコミュニケーションをとらなきゃ)と余計な気をまわしてしまいました。そこでその2人に

「ねぇ、ブタの絵ってどういう風にいつも描いてると?」

と聞きました。
そうすると2人が私の机に寄ってきました。
私の机は後ろ側で教室出入口に近い席でしたが、教室があまり広くなかったため3人で私の机を座って囲むのは難しい状態でした。
そこで私の机の隣の、出入口の横にある背の高い男子児童の机の周辺が出入口をふさがないように広くとられていたため、そこに集まりました。
私は自由帳を取り出そうとしましたが、家に忘れてきてありませんでした。
その2人にも「自由帳ある?」と聞こうと思いましたが、私が無理に誘ったので聞きづらく、聞けませんでした。

「愛子ちゃんから書いてみてよー。愛子ちゃんはどんなふうに書くと?」

ニコニコしてその2人は言いました。
私も誘った手前もあるけど初めてコミュニケーションが取れたことがうれしくなって(特にブタの絵が上手なわけでもないけど)先に書くことにしました。
自由帳も、何かの裏紙も見つからなかったので、
「自由帳がないけん、ここにかこっか!」
と私が言い出し、3人が集まった背の高い男子児童の机の板に書きました。
他にも
「お人形さんの絵とか、あっかんべー😝はどう書いてると?」
と聞いては3人で楽しくあれこれ言いながら、夢中になって書きました。
あっという間にチャイムが鳴り、クラスメイトが教室になだれ込むように戻ってきました。その波に押されて、自分たちの机に戻されてしまい男子児童の机に書いた豚の絵等々、消すことができませんでした。

するとその机に戻ってきた男子児童が

「あ!なんだこれ!!誰だよブタの絵描いたの!俺んちが家畜飼いだからかよ!うわぁああああああああ!!!」

と叫びながら号泣し始めました。
・・・・その男子児童の家は、豚や牛を飼っている家でした。(被差別部落)

(ああ、しまった。やってしまった・・・あの子の家、そうだった)

私が悪かったところは、その時にすぐ

「ごめんね!体育の授業中●●ちゃんたちと楽しくて書いちゃったんだ。別に◎くんの事じゃないから気にしないでね!すぐ消すね!」

と言えばよかったのですが。
(先生は私の事が大嫌いだから、ごめんしても絶対に私は殴られる)と思うと怖くて怖くてとても言い出せませんでした。先生は野球クラブの監督もしていたのですが、何度も目の前で男子生徒が殴られているのを見ていましたし。

机を見た男の子もわんわん泣いていて、その少しのタイミングも無くなり、クラス内も大騒動で収拾がつかなくなりました。

ちょうど良いタイミングで先生が教室に戻ってきてさっそく犯人探しが始まりました。
机に全員うつ伏せにさせられました。
「誰だ、正直に手を挙げろ。今だったら怒らんぞー。」
と言いながら、何度も途中その男子生徒に
「●●(男子生徒)。かわいそうになぁ。お前んち牛飼いだったよな?
辛かったろ?悲しかったろ?苦しかったよなぁ?誰だよこんなことするやつは。先生がきちんと罰を与えるから見とけな。」

と言いました。
おそらく先生は、犯人の推察がついていたと思います。


「最初に手を挙げた奴は軽く叩くだけだけん、最初に挙げとった方がええぞ。次の奴からは知らん。3人なのはもうわかっとっとだけん。」
と数回言われついに一緒に机に絵を描いた2人が私より先に手をあげました。最初の一人は軽いビンタ、次に手をあげた子は教室後ろのロッカーに投げつけられました。
そしてその2人が「愛子ちゃんに言われて仕方なくやった」と先生にいい、私がすべて扇動したということになりました。
(もう終わらせなければ。どのみち殴られるんだから。自分がミスったせいだから仕方がない)
と思い私が手を挙げた瞬間、先生が机に来て胸ぐらをつかまれ、つっぷしていたのを起こされてビンタを3,4発打たれました
強くて、右耳は一瞬で耳鳴りがして聞こえなくなりました。
さらにロッカーに叩きつけられました。何度も胸倉をつかまれ、起こされては叩きつけられました。恐怖と苦しさと体も耳も痛くて、しばらく立てませんでした。
教室のべたべたした茶色い床が涙でゆらゆらゆがんでいるのだけをじっと見ていました。
先生が何か、罵倒するような言葉を言っていたのを覚えていますが
文言は全く覚えていません。

そして一通り済んだ後先生が男子児童に言いました。
「はぁー疲れた。●●(男子児童)よぉ、見てたか?お前の仇とってやったけんね!こいつ(愛子)は一番人間として最低な奴だけんな。前から俺も思っとったったいねー。こいつはクズもクズ、ドクズだったとたい。俺もこいつをやれてすっきりしたよ。ありがとな。」
と。
そして倒れて泣いている私に何度も
「お前は元から最低な人間だから、こんくらいされて当たり前だ。バカが」
「お前の泣き言なんか聞かねーぞ。お前が悪いんだろが。なんか言ったらもう一回やってやるぞ。」
と言われました。

私はその日の帰り、一人で呆然と歩きながらこんなことを思っていました。

(私は、先生からみてずっと「人間として最低な奴」だったんだ。理由はわかんないけど。何でだったんだろう。私何かしたのかな。
でも・・・私は、生まれてきてはいけない人間だったのかもしれない。
そうだよね、だって双子で生まれてきて、仮死状態だったと母が言っていた。本当はここで息をすることも許されない人間だったんだろうな・・・。
本当は●●くんの机に書くはずじゃなかった。自由帳さえあれば。私が忘れさえしなければ。私はなんてできない人間なんだろう。こんなことになるって想像すればわかったはずなのに。
双子の妹に「とろえ」とあだ名をつけられてるけどその通りだよ。

あぁ、今。目の前の国道に飛び出したら車にはねられて死ねるかな。
菊池川に飛び込んだら死ねるんかな。
お父さん、お母さんは私が死んだら泣いてくれるのかな。
それとも私がいなくなって、双子じゃなくなって楽になったと笑うのかな。
妹は絶対「ばーか!ざま!」と言って死に顔見て笑うんだろうな。
弟は、私が生きていたのすら忘れるだろうな。
それより。今日の先生から叩きつけられたのより飛び込んで死ぬ方が痛いかな?あんまり変わんないんだろうな・・・・)


親には言えませんでした。
なので次の日も平気なフリをして普通に学校に行きました。
でもなぜか、足が重い。鉛の球を足かせにしているようでした。

私がクラスに入った瞬間、クラスメートが凍り付きました。
昨日のあの件から私は
「クラスメイトの机に誹謗中傷の落書きをして苦しめた犯罪者」
になっていました。


クラスで誰も口をきいてくれる人はいなくなりました。
双子の妹は別のクラスでしたが、妹は私のクラスと自分のクラスで
「あいつと双子だけど、私はあんなことせんよ。あいつ馬鹿だけんね。」
などと言い回り、味方にはなってくれませんでした。
学校に行くのが怖い。つらい。
同じくらい彼に悪いことをした気持ちもありました。
もっと私が色んな所に気が付ければよかったんだ・・・

授業が普通に始まりましたが、殴られて、ロッカーに叩きつけられて。右耳は聞こえなくなって。
先生の顔が怖くて見たくない、と思うようになりました。
授業中も先生と顔を合わせないように手で目を覆って授業を受けていました。そして教室でなぜか息を吸えない、息が苦しい。
昨日楽しく落書きをして先生に暴力を振るわれた2人も
「愛子ちゃんと関わるとろくなことないからあっちいこ。」
といって相手にしてくれなくなりました。

そうして一人で、無言で学校で過ごすようになって二週間過ぎたあたりだったでしょうか。
昔は自由に行けていた授業中のトイレも、先生の顔を見たくなくて言い出せず、我慢していて休み時間にトイレに駆け込み用を足した後違和感がありました。
便器を見ると血が混じっていました

(なんだろ・・?さっきおしっこをがまんしたせい?)

そう思って3日くらい様子を見ていましたが日に日に悪化してとうとう熱を出してしまいました。一滴も尿が出ないのに尿意はずっとあって、出ると最後が痛くて痛くて。血の量はどんどん増えてどす黒くなっていきます。
母にそのことを伝えるとすぐ病院に連れて行ってくれました。

膀胱炎でした。
しかも腎盂炎を起こしかけていました。
母に「なんでこんなになるまで黙ってたの!?」と言われました。

そこで初めて、これまであったことを母に話しました。

(難聴と血尿の小4時代(教師からの虐待)2に続く)


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