痛みを他人に分かってもらうことはできるのか
痛みを他人に分かってもらうことはできるのか。
歯が痛いとき、腰が痛いとき、傷つくことがあって心が痛いとき、その痛みを人にどうやって伝える?
痛みというのは個人の感覚的なものだ。
それを他者に伝えようとすると、感覚を言語に翻訳しなければならない。
「夜も眠れないくらい」とか「何にも集中できないくらい」とか「涙が止まらないくらい」とかいうように、どれくらい痛いのかについて比喩を用いて伝えようとするだろう。
言語に置き換えなきゃいけないので、本人の感覚を削ぎ落とされたものとして、もしくはまったく違うものとして置き換えてしまう。
「痛い」という言葉自体、自身の感覚として感じている痛みの度合いを正しく表現することができない。
これは痛み以外でも同じことが言える。
たとえば大好きなアーティストのライブに行ったとき、そのライブにどれだけ心を動かされたとしても、ライブの感想を人に伝える時は「ヤバかった…」とか「めちゃくちゃ良かった…」という言葉でしか表現することが出来ない。
本人はヤバかったという言葉以上のモノを感じているはずなのに、「ヤバかった」という言葉に置き換えることで、相手には「ヤバかったんだな」程度にしか伝わない。
言葉に置き換えると感情は浅はかなモノになっているように見える。
他の例だと、『愛しているの言葉じゃ足りないくらいに君が好き』という歌の歌詞もまさに同じだ。(これ曲名なんだっけ)
このことは、過去にヴィトゲンシュタインという哲学者が『哲学研究』という本の中で論じている。
ヴィトゲンシュタインはこのことを証明するためにカブトムシを用いた思考実験を行っているのだが、その内容も面白いのでぜひ。
言語化能力が何よりの価値だと思っている人こそ見てほしい。そんなことないって分かるから。
僕がヴィトゲンシュタインの論説を知ったのはわりと最近なのだが、僕はそれ以前に、似たようなことをテーマにした作品を作っていた。
それが過去の作品『BINGO GAME』である。
この作品をつくったきっかけは、以下のような出来事からだ。
当時長く付き合っていた彼女と別れた時のこと。
なかなか失恋を切り替えることができず、失恋話を他者によく話していた。
だがその時の他人からの返答がいつも、以下のような言葉だった。
「あー、そういう別れ方よくあるよね。知り合いのパターンと全く同じだわ~」
その当時、僕は誰かの失恋と一緒にされることが悲しかった。なぜなら、僕にとって彼女の存在や、彼女と過ごした時間は、他人とは同じにできない特別な時間だと思っていたし、この失恋も自分だけに降りかかったものだと思っていたからだ。
絵では、マンションの部屋でカップルたちが、それぞれ特別な2人の時間を過ごしている。その様子をマンションの外から見ている人が、ビンゴゲームをやっていて、ダブルビンゴになっている。
カップル本人たちにとっての2人の時間は、この世の何より特別で、唯一無二なものだと思っているのかもしれない。だけどそれは他人から見たら、まるでビンゴに穴を開けられるくらい、どれも同じことのようにしかみえない。そんな様子を絵に込めている。
傷ついたり孤独を感じたりしたときに、そのことを人に話すのは、きっと自分以外の誰かに痛みを分かってほしいからだと思う。だけど自分が感じた痛みは個人的な感覚なので、他人に同じ感覚を分かってもらうのは難しいことなのだ。というか無理。
この作品ではそんなことを表現した。
宇多田ヒカルがラジオで以前、次のような言葉を言っていた。(最近宇多田ヒカルばかり引用している気がする)
手に入れられなかったものや失ったものがどれだけの痛みを生じるものだったのかというのは私的な感覚だ。それは他者に伝えることができない。
でも、他者に伝えることのできないものだからこそ、その人自身にしか持てない唯一無二の感覚となって心の中で生き続け、その人らしさを作っているというのは、本当にそうだなと思う。最近何度も心の中で反芻している。
あと最近BINGO GAMEの作品をもとにバンダナを作った。
けっこういい感じにできたので、気になる方はどうぞ。
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