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書評:ダグラス・マレー『西洋の自死 移民・アイデンティティ・イスラム』

ジャーナリズムの告発と立論の特徴とは

今回ご紹介するのは、ダグラス・マレー『西洋の自死 移民・アイデンティティ・イスラム』という著作。

読んだのは2年以上前で、長らく紹介したい本とは全く捉えていなかったのであるが、オリンピック観戦のためてんで進まぬ読書の穴埋めという本音9割と、最近思うところを語る上でのお供になり得るとの考え直し1割で、今回取り上げることとした。

本著のテーマは、「ヨーロッパへの移民・難民の押し寄せや過度の受け入れが、ヨーロッパの治安悪化や社会の解体のみならずその本質やアイデンティティの破壊を招いており、もはやその解体と破壊は不可逆的な域にまで達している」という事実を告発することにある。

本著の性格、そしてそれがもたらす本著の特徴を注意深く見るためには、本著がジャーナリストによるものであり、それ故「良くも悪くも」「告発をメインとした」ものであることに注目することが大切だと考える。

①ジャーナリズムの「告発」の矜持

ジャーナリズムによる「告発」とは思うに、埋もれてしまいそうな事実や見過ごされてしまいそうな事実のうち、到底看過を許し得ないものを明らかにし、世論の認識の俎上に乗せ問題意識や活発な議論を乞うところにその使命があるのではないだろうか。

先日インスタグラムであるフォロワー様が、清水潔『桶川ストーカー殺人事件』という事件ノンフィクションの著作を紹介されていたのを拝見した。
私も過去に読んだことがあった著作であったため、改めて思い返したのだが、当著の著者の行動とそれがもたらした結果(桶川ストーカー殺人事件の真実を追い求め、警察の再調査を促し、のちの「ストーカー規制法」設立にまで至る)こそは、ジャーナリズムの矜持そのものであり、ジャーナリズムの社会的使命の大きさとそれを実現できる力がジャーナリズムにはあることを教えてくれる著作であった。

本著『西洋の自死』も同様に、崩れ行くヨーロッパの危機を告発し警鐘を鳴らすという、社会的使命を果たさんとする著者の気概に満ち溢れた著作である。

故に、ここに書かれた「事実」は読者・社会にとって極めて重要性が高いものとして向き合わねばならないものであろうことを察することができよう。

しかし、本著が取り扱うテーマのように、事実それ自体が非常に大きな事象や傾向である場合、事実の告発だけでも膨大な調査と検証を要したものとなることから、その告発を受けた読者や社会は、その原因や因果関係を含めた「問題の構造」に対する探求を引き継いでいかねばならなく場合がどうしても多くなる。
ジャーナリズムの告発に全てが含まれた状態であることを期待することが難しくなるからだ。

よって、読者・社会は本著の告発と向き合う時、その内容をスタート地点としつつも、問題に向き合い考え議論し続けることが求められるのだ。

そうした本著の特徴に鑑み、読者・社会が本著のテーマに向き合う上で、私は敢えて本著の「限界」を考え認識することもまた重要なのではないかと思った。

②「告発」の射程

ジャーナリズムによる「事実の告発」とは、一体どこからどこまでなされるものなのであろうか。
本著を念頭に考えるならば、私は2つの点に注意する必要があると考える。

1つは、文字通り「事実の告発」であるということの性質についてだ。

事実とは、実際にあった・起こった「事象」を中心に構成されたものである。
ジャーナリズムの告発が取り扱う事象は通常、最終的に成立した「結果事象」の1点に留まるものではなく、そこに至るまでに発生した関連が強く推測される一連の事象も対象となる。
言わば、「事象のパッケージ」がジャーナリズムの告発対象であることが一般的だ。

しかしここで注意しなければならないのは、各事象を「点」だとすると、点と点を繋ぐ「線」にあたる「因果関係」は果たして事象同様に当該パッケージに含まれるか、という点である。

因果関係というのは、事象そのものではない。
これは多分に「科学的思考」による論証に依存するものであり、ジャーナリズムが告発する事象のパッケージにはそれが充分に含まれないことが圧倒的に多いのが現実である。

本著のような極めて大きな事象や傾向をその対象とする場合、科学的に求められる「線」は単線ではなく、文字通り網の目を構成するような複雑な線分の交わりとなる。

こうした視点から、本著のような告発書がまるで自明の如く表現する「因果関係」に対しては、科学的にはシビアに臨むことが求められよう。

もう1つは、関連事象の品質に関する注意点である。

本著のように取り扱う最終結果事象が大規模な傾向である場合、ジャーナリズムによる告発の紙面の多くは当該最終結果事象そのものがどんなものであるかという説明(事象の意味内容、存在確認、性質、今後危惧される悪影響、等々)に割かれることとなる。

裏を返せば、その分最終結果事象に繋がることが推測される関連事象の告発が手薄になりやすいということだ。
つまり、対象最終結果事象が大規模になるに従い、一般的には「事象のパッケージ」であることは最低限期待される告発がそれにも至らないものとなる可能性が高くなるということである。

本著においてその負の特徴は、政治的「無策」を関連事象として多く取り上げているという傾向に見て取ることができる。
例えば、「メルケルは何ら対策を講じなかった」というような記述の連発だ。

一般に科学においては、「あることを証明」するよりも「ないことを証明」する方が遥かに難しい。
「あること」はたった1つ事例が見つかれば証明できるのに対し、「ないこと」は「あり得る可能性を完全に否定しなければならない」からだ。
隈なく探しても見つからなかったという努力は、「ないこと」を論理的に裏付ける力を何ら有さない。

これは現実の世界における「事物の不在」や「事象の不在」を証明することが事実上不可能であることを示唆するものだ。
「ないことの証明」が悪魔の証明と言われる所以だ。
ないことが論理的に証明可能であるのは事実上、「特定の公理と系からなる限定された世界」(例:数学のある分野)においてのみと言っても過言ではないだろう。

ここから言えることは、現実をテーマに取り扱うに際しては、「科学は「無」に対して厳しい態度であらねばならない」という一種のアフォリズムである。

故に、現実を取り扱うに際して、「ないこと」をあたかもそれが一種の事象であるかのように表現する言説(「ないという事実がある」のような表現)に対しては、科学的には相当に懐疑的であらねばならない。

上記の2つの特徴を念頭に置くならば、ジャーナリズムが告発する「事実のパッケージ」に接するに際しては、「ないという事象」(言わば「似非事象」)が無数の「似非点」を形成していないか(第一の誤謬)、そんな「似非点」間の「似非因果関係」を推測させてしまうものではないか(第二の誤謬)という、「二重の誤謬」を疑う目を持ち合わせなければならない。

残念ながら本著は、科学的な見地からは完全に「二重の誤謬」を体現した著作と言わざるを得ないというのが私の読後感である。

③何が言いたいか

原因と結果とは本来、「あったという事象」間の繋がりを紐解くべきものである。
「なかったという事象」という考え方そのものが非科学的である可能性が高く、更には「なかったという事象」から結果が生じているように見せる言説は「因果関係」に対するスタンスまでもが非科学的である可能性が高いと言うことができる。

「政治の無策」「政治が何もしていない」ことを責める風潮は現在のコロナ禍で旋風を巻き起こすかの如く流行している。

一見それっぽく見えるのがこうした言説の魔性なのだろうが、「無為」「無策」であることの証拠立て・根拠提示・証明は極めて難しい故、その主張の品質はほとんど「根も葉もない主張」と大差がないというのが科学的な立場であるべきである。

裏を返せば、科学的に信憑性の伴う主張であるためには、「無為」「無策」「何もしていない」に見えるものを、「実際には何をやっているか・いたか」を明らかにすることから立論することが求められるということだ。
それが科学的検証の第一歩である。

●「何にもしてねぇ!」は非科学的な言説であることを知りたい
●「こんな(間違った)ことをやっていた」から「こうなった」という因果関係の立論を科学的には目指したい

本著を通して私が綴りたいと考えた感想は、こういうものである。

読了難易度:★★☆☆☆
告発インパクト度:★★★★☆
告発事象と因果関係の科学度:★★☆☆☆
トータルオススメ度:★★☆☆☆

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