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雑感『スプートニクの恋人』

人間はめったにものを考えたりなどしない

すみれは従姉の結婚披露宴でミュウに恋に落ちてから、小説を書くことを中断してしまう。それまでのすみれにとって、自身の存在と文学的信念のあいだに「髪の毛一本はいりこむすきまもなかった」にもかかわらずだ。

実をいえば、彼女はいくらでもよどみなく文章を書くことができた。文章が書けないという悩みはすみれとは縁のないものだった。頭の中にあるものを次から次へと文章に移しかえることができた。問題はむしろ書きすぎることだった。

(『スプートニクの恋人』p19)

このようにすみれが取りつかれたように小説を書いていたのは、書くことがすなわち考えることだったからだ。彼女がギリシャの島で失われたのち、フロッピー・ディスクに残されていた「文書」によりそれが明らかになる。

どうして書かずにはいられないのか? その理由ははっきりしている。何かについて考えるためには、ひとまずその何かを文章にしてみる必要があるからだ。

(『スプートニクの恋人』p191)

なぜ、すみれはそのような回りくどい方法をとるのか。それは、世の中の多くの人が行っている思考法を彼女が用いたくないからだ(あるいは用いることができない)。

わたしたちの中には、「知っている(と思っている)こと」と「知らないこと」が避けがたく同居している。そして多くの人はそのふたつのあいだに便宜的についたてを立てて生きている。だってその方が楽だし便利だから。でもわたしはそのついたてをあっさりと取り払ってしまう。だってわたしはそうしないわけにはいかないから。だってついたてなんて嫌いだから。だってそれがわたしという人間なんだから。

(『スプートニクの恋人』p196-197)

ものを書いて考えることはすみれにとっての本性(ネイチャー)であり、「既知」と「未知」は峻別されることなく等価に扱われる。これに対し、世の中の「多くの人」は既知のものと未知のものとの間に便宜的についたてを立ててしまい、ろくに考えもしない。なぜなら「その方が楽だし便利」だからだ。

ここで人間がなぜ考えるのかを示唆する一文を紹介する。ジル・ドゥルーズの言葉だが、國分功一郎が著書のなかで引いているので、そのまま引用する。

哲学者たちはこれまで、人間はものを考えることを好むと述べてきた。しかしそれはまったくの間違いである。人間はめったにものを考えたりなどしない。
ならば人間がどういうときにものを考えるというのか? ドゥルーズはこう答える。人間がものを考えるのは、仕方なく、強制されてのことである。「考えよう!」という気持ちが高まってものを考えるのではなくて、むしろ何かショックを受けて考える。

(國分功一郎『暇と退屈の倫理学 増補新版』p339)

どういうことだろう? 國分は理論生物学者ヤーコプ・フォン・ユクスキュルが示した「環世界」の概念を引いて解釈する。

人間にとって、生き延び、そして成長することとは、安定した環世界を獲得する過程として考えることができる。いや、むしろ、自分なりの安定した環世界を、途方もない努力によって、創造していく過程と言った方がよいだろう。

(國分功一郎『暇と退屈の倫理学 増補新版』p335-336)

上記引用は、「多くの人」がやっている、知と非知の間についたてを立てる行為を指している。未知をしりぞけ、既知のものに囲まれた世界。これが多くの人が住んでいる「環世界」だ。
ドゥルーズはこの安定した環世界に「不法侵入」してくるものを「ショック」と呼んでいる。つまり、ついたてを乗り越えて未知が既知に混ざり込んできたとき、人ははじめて「考えて、対応」するというわけだ。

このように「多くの人」は必要に迫られて考えることを始める。言い換えれば、「途方もない努力」をして安定した環世界をつくってしまえば、「不法侵入」が起こらないかぎり考えなくてもよい。
それに対し、すみれは常に考えていた。それも彼女自身の欲求と必要に迫られて。なぜならすみれは安定した環世界を獲得する過程としての思考を、現在進行形で行っていたからだ。

しかし、上述のように、ミュウと出会ってからすみれは考えること(書くこと)をすっぱり行わなくなる。

わたしはつまりおそらく、思考すること--もちろんわたしが個人的に定義するところの思考すること--をやめたのだ。わたしは重ねられたふたつのスプーンのようにぴたりとミュウのそばにいて、彼女とともにどこかに(どこかわけのわからないところに、というべきだろう)流されているし、「べつにまあそれでもいいや」と思っているのだ。
というか、ミュウに寄り添うためには、わたしは極端に身軽になる必要がある。思考するという基本的な行為すら、わたしにはけっこうな重荷になってしまう。

(『スプートニクの恋人』p193-194)

「思考するという基本的な行為」と「極端な身軽」さが対になっていることに注目しよう。すみれにとって書くことは、自身を地上につなぎ止めるほどの重力(引力の絆)を持っている行為なのだ。そして、それを手放すだけでミュウの失われた半身がいる「あちら側(夢の中)」へ移行ができてしまう。

「ぼく」を地上につなぎ止める「環世界」

一方、すみれが書くことを手放せたようには、「ぼく」はこの現実から遊離することができない。当然ながら、「ぼく」は自前の「ついたて」を有した比較的安定した環世界にいるからだ。

ぼくは「あちら側の」の世界のことを思った。たぶんそこにはすみれがいて、失われた側のミュウがいる。(中略)でもその世界への行き方がわからなかった。ぼくはアクロポリスのつるつるとした硬い岩肌を手で撫で、そこに染み込み、封じ込められた長い歴史のことを思った。ぼくという人間は否応なく、その時間性の継続の中に閉じこめられている。そこから出ていくことができない。いや違う--そうじゃない。結局のところ、そこから出ていくことをぼくはほんとうには求めなかったのだ。

(『スプートニクの恋人』p262-263)

では「ぼく」を地上につなぎ止めている環世界はどんなものか。

ぼくは子供の頃からずっと一人で生きてきたようなものだった。家には両親とお姉さんがいたけど、誰のことも好きにはなれなかった。家族の誰とも気持ちが通じあわなかったんだ。(中略)いずれにせよ、ぼくは自分がその家族たちと血がつながっているということが、うまくのみこめなかったんだ。それよりはむしろこの人たちはまったくの赤の他人だと思った方が、ぼくにとってはらくだったな。

(『スプートニクの恋人』p285)

なにか困ったことがあっても、誰かに相談なんかしなかった。一人で考えて、結論を出して、一人で行動した。でもとくにさびしいとも思わなかった。そういうのが当たり前だと思っていたんだ。人間というのは、結局のところ一人で生きていくしかないものなんだって。

しかし大学生のときに、ぼくはその友だちと出会って、それからは少し違う考え方をするようになった。長いあいだ一人でものを考えていると、結局のところ一人ぶんの考え方しかできなくなるんだということが、ぼくにもわかってきた。ひとりぼっちであるというのは、ときとして、ものすごくさびしいことなんだって思うようになった。

(『スプートニクの恋人』p287)

要するに「ぼく」は自分と他者のあいだに「ついたて」を設置していたのだ。その根拠となる考え方が以下だ。

我々は実のところ自分についていったいなにを知っているというのだろう?
そういうことを考えれば考えるほど、ぼくは自分自身について語ることを(もしそうする必要があるときでも)、保留したくなった。それよりはむしろぼくという存在以外の存在について、少しでも多くの客観的事実を知りたいと思った。そしてそのような個別的な事柄や人物が、自分の中にどのような位置を占めるのかという分布なり、あるいはそれらを含んだ自己のバランスの取り方なりを通して、自分という人間存在をできるだけ客観的に把握していきたいと思った。

(『スプートニクの恋人』p81)

しかし、その試みはうまくいかない。上記のような考えを、「ぼく」は客観的な把握の対象である他人にうまく説明できないからだ。

たぶんそのせいだろう、思春期半ばのある時点から、ぼくは他人とのあいだに目に見えない境界線を引くようになった。どんな人間に対しても一定の距離をとり、それを縮めないようにしながら相手の出かたを見届けるようになった。人々が口にすることを鵜呑みにしないようになった。

(『スプートニクの恋人』p82)

「ぼくという存在以外の存在」を客観的に知ることは難しい。難しいどころか、「ぼく」は他者とのチャンネルを遮断してしまっている。コンセプトと実践に大きな乖離が生まれる。そして「目に見えない境界線」は自身を守る「殻」として機能する。

ぼくはうまく呼吸ができなくなるほどの、激しい悪寒に襲われた。よくわからないところで、誰かがぼくの細胞を並べ替え、誰かがぼくの意識の糸をほどいていた。考えている余裕はなかった。ぼくにできるのは、いつもの避難場所に急いで逃げこむことだった。

(『スプートニクの恋人』p249)

ギリシャの夜、山の上で行われていると思しき楽隊の音楽にとらわれたとき、「ぼく」は自身の変質を予感する。これに対して「ぼく」は環世界を守るための防御行動をとる。

ぼくが少しでもその姿を認めたそぶりを見せれば、彼らはすぐになにかの意味を帯び始めるに違いない。意味はそのまま時間制に付着し、時間制はぼくをいやおうなく水面に押しあげていくだろう。ぼくはかたく心を閉ざし、彼らの行列をやり過ごした。

(『スプートニクの恋人』p250)

先に述べたように、すみれは自らの環世界への「不法侵入」を許していた。これに対し、「ぼく」は自身の正確なマッピングのため「ぼくという存在以外の存在」の「不法侵入」を許したかったが、現実的に難しかった。結果、「ぼく」の環世界は自身を守る「殻」として機能し、すみれとミュウの半身がいる世界への移行を邪魔した--。

大筋としてはこのとおりだろう。
しかし、大きな疑問が残る。すみれはおそらく、「ぼく」が世界の移行ができないことを見抜いていた。それなのに、なぜ自身は「夢の中」へ移行してしまったのか。

夢の中ではあなたはものを見分ける必要がない。ぜんぜん、ない。そもそもの最初からそこには境界線というものが存在しないからだ。だから夢の中では衝突はほとんど起こらないし、もし仮に起こってもそこには痛みはない。

(『スプートニクの恋人』p198)

夢の中では、知と非知をよりわける必要がない。言い換えれば、思考しなくてもよい。しかし、そこにはモラルも存在しなくなる。

だからこそ、わたしは文章を書いてきた。わたしは日常的に思考し、思考し続けることの延長にある名もなき領域で夢を受胎する――非理解という宇宙的な圧倒的な羊水の中に浮かぶ、理解という名の眼のない胎児。わたしの書く小説が途方もなく長くなって、最後には(今のところ)収拾がつかなくなるのは、たぶんそのせいだろう。わたしにはまだその規模に見合った補給線を支えきることができないのだ。技術的に、あるいはまた道義的に。

でもこれは小説ではない。(中略)ここではわたしには道義的な責任のようなものはない。

(『スプートニクの恋人』p199)

小説を書くことは道義的な責任をともなう。しかし書くことをやめてしまえば、道義的責任を負うことなく夢を見られる。
しかし、だからといって、すみれが書くことを全面放棄したわけではない。現実につなぎ止められている「ぼく」をアンカーに、すみれは地上へ帰還する。少なくとも物語の結末でその可能性が示唆される。

ここですみれ、「ぼく」のそれぞれがかかえる問題点をさらに掘り下げてみよう。

だからこそ、わたしは文章を書いてきた。わたしは日常的に思考し、思考し続けることの延長にある名もなき領域で夢を受胎する――非理解という宇宙的な圧倒的な羊水の中に浮かぶ、理解という名の眼のない胎児。

(『スプートニクの恋人』p199)

すみれは「書くこと=考えること」を続けていった果てに、「夢=理解」へ到達すると考えていた。しかし「今のところ」その試みはうまくいかない。もちろん彼女もそのことに自覚的であり、「ぼく」に相談もする。

「君に必要なのはおそらく時間と経験なんだ。ぼくはそう思う」
「時間と経験」とすみれは言って、空を見上げた。

(『スプートニクの恋人』p25)

「ぼく」が言いたいのは、習い性のように書くことを続けていても、そのままでは「夢=理解」へ到達することはできないということだ。しかし、すみれにとって書くことは、現実(撃たれれば血の流れる世界)で生きていくためのサバイバル術でもあった。思考をやめたとき、彼女には「自分なりの安定した環世界」は存在しない。これがすみれの問題点だ。
また、無批判に何かを続けて、意味のある達成が得られるだろうか。中国の都市の門のたとえでいえば、骨ばかりを集めても呪力的な力を持ちえない。これも大事な問いだ。

とにかく一流のピアニストになりたいという思いで頭がいっぱいで、まわり道や寄り道をすることなんて考えもしなかった。自分になにが欠けているのか、その空白に気がついたときにはもはや手遅れだった

(『スプートニクの恋人』p234)

ミュウもまた、まわり道や寄り道ができなかった。そこには道義的な責任が明らかに存在する。

強くなることじたいは悪いことじゃないわね。もちろん。でも今にして思えば、わたしは自分が強いことに慣れすぎていて、弱い人々について理解しようとしなかった。幸運であることに慣れすぎていて、たまたま幸運じゃない人たちについて理解しようとしなかった。(中略)当時のわたしの人生観は確固として実際的なものではあったけれど、温かい心の広がりを欠いていた。

(『スプートニクの恋人』p233)

ミュウにのこういった生き方に対して、「注意してくれるような人は、まわりには一人もいなかった」。これはすみれと異なることだ。すみれには「ぼく」がいる。

彼女はぼくにいろんな質問をしたし、その質問の答えを求めた。答えが返ってこないと文句を言ったし、その答えが実際に有効でないときには真剣に腹をたてた。(中略)すみれはその質問についてのぼくの意見を心から求めていた。

(『スプートニクの恋人』p86)

すみれは彼女の思考の装置として「ぼく」を外部CPUのように組み込んでいる。だから、彼我の区別はあいまいになる。

「わたしもあなたが好きよ」とすみれは言った。「この広い世界の中で誰よりも」
「ミュウの次にね」
「ミュウはちょっとちがうのよ」
「どんな風に?」
「彼女に対して感じる感情は、あなたに対してのものとは種類がちがう。つまり……そうね、どんな風に言えばいいのかしら?」
「ろくでもないヘテロ・セクシャルである凡庸なぼくらは、なかなか便利な表現をもっている」とぼくは言った。「そういうときにはひとこと、『勃起する』って言えばいいんだ」
すみれは笑った。

(『スプートニクの恋人』p98)

ミュウへの感情を語ることで、すみれの「ぼく」への「好き」という感情が詳らかになる。これは、結末ですみれが語る「あなたはわたし自身であり、わたしはあなた自身」という言葉に直結している。そう考えると、すみれの帰還は彼女が考えること=書くことを再開し、外部CPUである「ぼく」を召喚したのだともとれる。

話を戻そう。
無批判に何かを続けてしまうことに対する対処法のひとつは、批判性を持ち込むことだ。ミュウにはそういう存在がいなかった。それはもちろん悲劇だが、すみれと「ぼく」は彼女の思考という舞台でしか交われない。いや、これはいささか否定的すぎる。ふつうは思考を共有することなんてできない。それはそれで偉大な達成だ。

彼女はぼくの属している世界の外縁をひとまわり広げて、大きく息をつかせてくれた。そんなことができるのはすみれだけだった。

(『スプートニクの恋人』p87)

「ぼく」の言う「世界の外縁」は、他人とのあいだに引いた「目に見えない境界線」を指すのだろう。ここで注意したいのは、すみれの存在が外縁自体を破壊してくれるわけではないということだ。つまり「ぼく」にとってもすみれは彼我の区別が難しい、境界線の内側の存在だ。

そう考えると、すみれにとっての「ぼく」、「ぼく」にとってのすみれのような存在だけが、無批判に何かを続けてしまうことを止めてくれるのだろうか。ここで新たな疑念も生じる。彼我の区別がつかないもの同士は、しょせん「自分」ではないのだろうか。「自分」ははたして自分に対して批評性を持つのだろうか?

ここまで考えてくると、すみれが思考をやめ、ミュウの半身がいる夢の世界へ向かったことの真意が見えてくる。つまり、すみれは「ぼく」との分離を試みたのだ。だから、ミュウと恋に落ちたのと、思考=執筆をやめたのが同時なのは偶然ではない。

すみれは書くことを、考えることをやめることで、「ぼく」が必要なくなった。では、「ぼく」はどうだろう。
前述のとおり、「目に見えない境界線」は「ぼく」を地上につなぎ止めている。だが、すみれを、つまり自分自身の一部を失って現実を生きるのはつらい。このつらさを共有できるのは、半身を失っている「こちら側のミュウ」だけだ。ミュウがすみれがいなくなって4日後に「ぼく」をギリシャの島へ呼び寄せた真意はここにある。ミュウはおそらくすみれの「あちら側」への移行を確信している。そのうえで、地上に残された片割れ同士が結びつくことができるのか、それを試そうとしたのだ。

結局、その試みは実を結ばない。帰国した「ぼく」とミュウは再び結びつくことはない。

ぼくらはこうしてそれぞれに今も生き続けているのだと思った。どれだけ深く致命的に失われていても、どれほど大事なものをこの手から簒奪されていても、あるいは外側の一枚の皮膚だけを残してまったくちがった人間に変わり果ててしまっていても、ぼくらはこのように黙々と生を送っていくことができるのだ。(中略)そう考えるとぼくはひどくうつろな気持ちになった。

(『スプートニクの恋人』p303-304)

ささやかだけれど、役にたつこと

では、この地上で「ぼく」はどうやって生きていくのか。我々が生きていくヒントが、たぶん本作にはある。

まずひとつは「数を数えること」だ。

「それで、ちょっと考えてみて。もしあなたが、誰かと一緒に車で長い旅行をするとするわね。パートナーを組んで、ときどき運転を交代する。それでそういう場合にあなたは、相手としてどちらのタイプを選ぶかしら。運転がうまいけれど注意深くない人と、運転はあまりうまくないけれど注意深い人と」
「あとの方ですね」とぼくは答えた。

(『スプートニクの恋人』p60)

上記は、「ぼく」が大学1年のときに旅先で関係をもった女性との会話だ。最初のセックスがぎくしゃくしたものだったので「ぼく」が謝ったとき、このやりとりが始まった。
このエピソードを、「ぼく」はすみれに開示する。話のポイントは「注意深くなること」。運転のうまさ(「才能とでも呼べばいいのかしら」)を鼻にかけ、無批判に車を走らせていると事故を起こす。だから注意深くなれ--。当たり前といえば当たり前だ。

「でも注意深くなるためには、どうすればいいの?(中略)もう少し具体的に言ってくれないかな。たとえば?」
「まず気持ちを落ちつけるんだよ。たとえば――数を数えるとか」
「ほかには?」
「うーん、夏の午後の冷蔵庫の中にあるキュウリのことを考えてもいい。もちろんたとえばだけど」
「ひょっとして」とすみれは少し間を置いて言った。「あなたはいつも、夏の午後の冷蔵庫の中のキュウリのことを想像しながら女の人とセックスしているの?」

(『スプートニクの恋人』p62-63)

ミュウと二度目に会ったとき、すみれは彼女にじっと手を握られ、目をのぞき込まれた。その間すみれは、「夏の午後の冷蔵庫の中にある冷えたキュウリ」のことを考えていた。

「それで少しは役に立った?」
「わりに」とすみれは言った。
「それはよかった」とぼくは言った。

(『スプートニクの恋人』p63)

何かにのまれそうになったとき、あるいは無批判に「才能」を駆動させてしまうとき、まずは「数を数える」ことは大事だ。もちろん数やキュウリでなくてもいい。

ときおり風が強く吹いて、観覧車がふらりと揺れた。彼女は目を閉じて、架空の鍵盤の上で指を小さく動かしながら、モーツァルトのハ短調のソナタを演奏してみた。とくにこれという理由もなく、彼女は子供のころに弾いたその曲を今でもそっくり暗譜していた。でもゆるやかな2楽章の途中で頭がぼんやりとかすんできた。そして彼女は眠りに落ちた。

(『スプートニクの恋人』p223-224)

ミュウが観覧車に閉じ込められた場面では、暗譜していたソナタが眠りへ導いてくれた。ただし、このあと彼女が目覚めたとき、自身のドッペルゲンガーを目撃するわけだから、例としては適切ではないかもしれない。

もうひとつ、ミュウが暗譜していた楽曲に頼る場面をあげよう。ただ、いずれにしても彼女は実際には「もう何も弾けない」ということを申し添えておく。

ミュウはすみれの裸の身体に手を触れるのは初めてだった。(中略)月の光に洗われて、すみれの裸体は古代の陶器のように艶やかだった。(中略)ミュウは見てはいけない他人の秘密をのぞき見ているような気がした。できるだけその肌から目をそらし、子供の頃に暗譜したバッハの小曲を頭の中でたどりながら、タオルを使ってすみれの身体の汗を静かに拭った。

(『スプートニクの恋人』p164-165)

生きていくよすがとなりうるものの二つ目は、「自分の体を動かし、自分のお金を払って覚えたこと」だ。
たとえば、すみれとミュウが初めて会ったとき、二人はクラシック音楽について熱心に語り合う。

どちらもピアノ音楽が好きで、中でもベートーヴェンの32曲のピアノ・ソナタを音楽史上もっとも重要なピアノ音楽であるとみなしていた。そしてヴィルヘルム・バックハウスがデッカに遺した録音はその基準となるべき解釈であり、並ぶもののない見事な演奏であると信じていた。おまけになんと楽しくて、生きる喜びに満ちていることだろう!

(『スプートニクの恋人』p30)

ここで再び『暇と退屈の倫理学』から、ドゥルーズについて述べている箇所を引用しよう。

思考は強制されるものだと述べたジル・ドゥルーズは、映画や絵画が好きだった。彼の著作には映画論や美術論がある。そのドゥルーズは、「なぜあなたは毎週末、美術館に行ったり、映画館に行ったりするのか? その努力はいったいどこから来ているのか?」という質問に答えてこう言ったことがある。「私は待ち構えているのだ」。
ドゥルーズは自分がとりさらわれる瞬間を待ち構えている。(中略)そして彼はどこに行けばそれが起こりやすいのかを知っていた。彼の場合は美術館や映画館だった。

(『暇と退屈の倫理学 増補新版』p366-367)

國分が用いる「とりさらわれる」とは、簡単に言えば没入、没我のことだ。しかし人間は動物のように容易に没入できない。たとえ何かを楽しんでいても「なんとなく退屈だ」という通奏低音から完全に逃れることはできないからだ。また、何かに無批判に身を任せることは、自身の奴隷化にもつながる。たとえば、戦争の大義に付き従うといったことだ。このあたりは『スプートニク〜』と議論が奇妙に重なるところがある。

では、どうすればいいのか。そう、「とりさらわれる」状況を自ら作ればいいのだ。

食べることが大好きでそれを楽しんでいる人間は、次第に食べ物について思考するようになる。美味しいものが何で出来ていて、どうすれば美味しくできるのかを考えるようになる。映画が好きでいつも映画を見ている人間は、次第に映画について思考するようになる。これはいったい誰が作った映画なのか、なぜこんなにすばらしいのかを考えるようになる。

(『暇と退屈の倫理学 増補新版』p366)

すみれとミュウが音楽について楽しんで思考するようになったように、ドゥルーズも「思考を強制するものを受け取る訓練」をしている。「好きこそものの上手なれ」は日常を覆う虚無感(「退屈」)を救ってくれる可能性がある。

最後の一つは、「他人のことはなんとでも簡単に言える」だ。

「他人のことはなんとでも簡単に言えるのよ」とすみれは言った。「だいたいあなたは生まれてから煙草を吸ったこともないじゃない」
「他人のことがなんとでも簡単に言えなくなったら、世界はすごく陰鬱で危険な場所になる。ヨシフ・スターリンのやったことを考えてみるといい」

(『スプートニクの恋人』p73)

世界を陰鬱で危険な場所にしないためには、ユーモアも必要だ。

すみれは顔をしかめて溜息をついた。「くだらない冗談を燃料にして走る車が発明されたら、あなたはずいぶん遠くまで行けるわよね」
「でもまあ、世の中には知的枯渇というものがあるから」とぼくは謙虚に言った。

(『スプートニクの恋人』p64)

先にすみれと「ぼく」は彼我があいまいだと述べた。しかし、不思議なことにユーモアを介すと、彼我の一線が引かれる。

ユーモアと近いもので、皮肉というものもある。皮肉も直面すべきシリアスな状況をほんの少しだけ和らげてくれる。

「今日のことは、わたし一人ではたぶんうまくやれなかったと思う。ずいぶんきつかったから。あなたがいっしょにいてくれてほんとによかった。それは感謝してるのよ。あなたはとても立派な先生になれると思うわ。今だってほどんどそうだけど」
そこに皮肉が含まれているのかどうか、ぼくは考えてみた。たぶん、間違いなく、含まれているはずだ。
「今はまだそうでもない」とぼくは言った。彼女はほんの少しだけ微笑んだ。

(『スプートニクの恋人』p295)

本書に散りばめられた「生きるヒント」はささやかなものばかりだ。でも役にたつ。

何かおかしいと感じさせるもの、こういうことがあってはいけないと感じさせるもの、そうしたものに人は時折出会う。自分の環世界ではあり得なかったそうした事実を前にして、人は一瞬立ち止まる。そして思考する。しかし、それを思考し続けることはとても難しい。なぜなら、人は思考するのを避けたいからである。

(『暇と退屈の倫理学 増補新版』p368)

そう。人は考え続けることはできない。それなのに、すみれはそのいばらの道を選び、そして地上を飛び出すことを選ぶ。地上にしがみついて生きていく者は、ささやかだけれど役にたつことをよすがに生きるしかない。彼女が地上へ帰還する日までは。

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