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核心・上海列車事故~第6章・太陽の少女~

 本章をもって今回の考察シリーズは最終回です。ここまでお読みいただきましてありがとうございました。

 当考察シリーズの一覧はこちらです。
核心・上海列車事故|上海列車事故の備忘録|note

【語られない上海列車事故】

 生還した生徒、教師たち、在校生、多くの遺族、その他の関係者・・・上海列車事故の当事者や関係者といえる多くの人たちは事故のあと、まるで貝になったように沈黙した。
 ネット上の高知県のローカル掲示板では当時の高知学芸中高の在校生だった思しき人が「あの事故についてはみんな不思議なほど沈黙した」「結局自分が卒業するまで誰も話題にしなかった」という趣旨の書き込みをしていた。
 このnoteにて「上海列車事故」という語句を検索したところ、ヒットしたのは私がこれまでに投稿した記事の他はたった1つ。その内容は、筆者(女性)が大学生時代に加入していた奉仕運動の全国集会で仲良くなった子と寝る間を惜しんで語り合っていたところ、不意にその子が「私の話を聞いてもらいたい」「地元では思いを話す場所がないから」と言い出すので聞いたところ、その子は上海列車事故で生還した生徒で、目の前で友達が亡くなっていったのを目の当たりにしていた・・・というものだった。

 大勢の友達、あるいは先輩・後輩を突然失うというあまりの衝撃、事故のあとで遺族の一部が学校を相手に裁判を起こしたこと、訴訟から学校組織を守るという目的で学校関係者が保身に走ったこと、一方で子供を失った親という立場を鑑みてなお過剰で非建設的と思えてならないような一部遺族による学校や教諭への問責、(今では想像もできないが)日中の友好ムード・・・
 当事者の口を貝のように閉ざさせてしまう要因はいくつもあったのだろう。しかしそのことが上海列車事故の著しい風化を招いた最大の要因なのだと私は考えている。

 当事者が語れることは、事故のときに何があったのか、誰が悪いと思うのか、自分はどのように事故を受け止めたのか、といったことばかりではない。不幸にして上海で命を落とした生徒たちがどのような人であったのかということだけでも、後世に語り継いでいく価値があるのではないだろうか。

 ニュージーランドで首相を務めたアーダーン氏は、自国で発生した悲劇的なテロ事件の後に次のような趣旨の発言をしたという。
「『誰が殺したのか』だけではなく『誰が殺されたのか』を想おう。」

 上海列車事故における私の今回の考察は前の章までに既にまとめているが、この最終章では、あの言葉にできないほどの悲劇的な死を遂げた津野千代子(仮名)について、私がこの事故について様々な資料を見てきた過程で知ることとなった彼女の人となりなどを語ってみたい。

高知学芸高校1年D組のクラス写真。 上海列車事故で犠牲となった27名の生徒のうち実に21名もがD組の生徒たち。特にこの事故における計10名の女子生徒の犠牲者は全てD組の生徒たちだった。

【メモリアルルーム】

 高知学芸高校にはメモリアルルームという一室がある。上海列車事故の犠牲者たちを追悼する場である。私自身もこの部屋を訪れてみたことがある。廊下の扉から向かって左側の壁には男女27名の生徒と教諭1名、犠牲者一人ひとりの大きな写真が掲げられ、反対側の壁を何十という彼ら彼女らの在りし日の写真が埋め尽くしている。いずれも事故に遭うまでの修学旅行中の写真と事故の前月に催行された学園祭(高知学芸高校は隔年で2月に学園祭を開催)で撮られた写真だった。
 そしてそれらの写真の多くが津野千代子(仮名)の姿を捉えていた。学園祭に修学旅行、いずれの写真の中でも彼女は白い歯を覗かせて太陽のように輝くような笑顔を浮かべていた。
 かつて生徒会室だったというこの部屋は津野千代子(仮名)にとっての青春の1ページでもあった。

【選ばれた生徒】

 おそらくは最期の瞬間まで、津野千代子(仮名)は薔薇色の青春の真っただ中にあった。学校が発行した事故の犠牲者の追悼集や高知新聞における犠牲者の追悼記事を読めば読むほど、そこに登場する彼女の送ってきた16年の人生は輝いていた。選ばれた人間という印象すら私は抱いた。

 実際に彼女は選ばれた生徒だった。事故の半年前、1987年9月に行われた高知学芸高校の生徒会役員選挙で津野千代子(仮名)は立候補した。生徒会の顧問教諭は立会演説会にて全校生徒を前に臆することなく演説する彼女の目が覚めるような明朗さに驚いたという。
 投票の結果、千代子(仮名)は7名の執行役員の一人に選出された。1年生にもかかわらず生徒会でただ一人の女子生徒だった。

 その年度は隔年の高校文化祭が2月に開催されることになっており、千代子(仮名)は1年生にして裏方とはいえ責任ある会計の仕事を引き受けた。それからの日々、のちにメモリアルルームとなる生徒会室は、いつしか快活な彼女が明るい雰囲気の中心となっていったという。文化祭の直前の生徒会は深夜まで活動していたが、いつも彼女の笑顔が他のメンバーの背中を押した。

 そんな千代子(仮名)は前の年、中学3年生のときも文化祭のスターだった。中学校の文化祭では1年生から3年生の各クラスごとに体育館のステージを使って合唱や演劇を披露する。
 彼女のいた3年C組は「時計の国のドロシー」という劇を披露して好評を得ていた。原作のない文化祭のための書き下ろし。誰あろう、台本を書いたのは千代子(仮名)なのだった。無論、演出役も彼女が担っていた。

【幡多とアメリカ】

 当時は毎年2桁の東大進学者を出していた高知学芸高校にあって、千代子(仮名)は学業も学年トップクラスだった。そんな彼女の進学目標は遥かアメリカの大学だった。事実、彼女の最も得意な科目は英語であり、それは父親は公立高校の英語教諭をしていたことも影響していたのかもしれない。そんな彼女は普段は父や母と離れて生活していた。

 津野千代子(仮名)は高知市から西へ遠く離れた幡多地方の中村市(現:四万十市)の生まれである。三人姉妹の末っ子だった。中学に進級するにあたり、実家から遠く離れた県内屈指の中高一貫の進学校・高知学芸中高を受験したのは彼女自身の発案だったのか、あるいは「可愛い子には旅をさせよ」とばかりに両親が勧めたのか。いずれにせよ彼女は見事に合格を果たしたのだった。
 彼女の実家の最寄り駅から高知学芸中高の最寄り駅である朝倉駅までは特急でも1時間半、鈍行だと3時間以上を要する。だから彼女は中学校入学と同時に高知市内の母方の祖母の家に移り住んで母方の祖母と2人暮らしを始めた。
 両親不在の生活にハンディはあったかもしれないが、千代子(仮名)は勉強を頑張り、陸上部に所属して短距離選手として活躍し、多くの友達を作りしっかりと学校生活を送った。

 それから3年が経って中学校を卒業した春休み、千代子(仮名)はアメリカへホームステイに赴いた。もしかすると親元を離れて3年間頑張った娘への両親からのプレゼントだったのかもしれない。
 彼女は2週間のアメリカでの生活を大いに楽しんだ。本家フロリダのディズニーランドへも遊びに行き、交流事業のなかで男友達まで作って事故に遭うまで文通を続けるに至った。この経験が千代子(仮名)にアメリカの大学を進学希望先として決意させたのかもしれない。

1987年3月、アメリカへホームステイに赴いた津野千代子(仮名・画像中央)。この1年後に・・・

 ところで、このホームステイの事業名は「インマヌエル海外聖書学校」という。つまるところ、日本のキリスト教徒の子弟がアメリカに渡って現地の人々と交流を深めるのが主たる目的である。
 津野千代子(仮名)の一家はクリスチャンである。宗派はプロテスタントだが、その中でも少数派の改革派教会という団体に属している。ごく簡潔に説明をするならば、戦前に日本基督教団というプロテスタントの統合教団があったのが、戦争に協力して神の道に背いたことを恥じた人々の一団が分離独立したのが改革派教会である。
 それゆえ日本のキリスト教徒の中でも信仰心の厚い人たちが特に多かった。千代子(仮名)も中学校に入学してから高知市内の伝道所で行われる日曜礼拝には時間の許す限り参加し続けた。義務感や習慣による形だけの出席ではなく、礼拝があった日に彼女は必ず実家の母に電話をし、その日の礼拝の内容を詳しく語り聞かせたという。
 そして1987年6月、高校1年生になっていた千代子は洗礼に導かれていた。

【青春する!】

 親元を離れて生活していた津野千代子(仮名)が、結果的に彼女が最後に幡多の実家で家族と過ごしたのは1988年の正月となった。
 一家では毎年の正月行事として両親と3人の娘たちが各々、これからの一年の誓いの言葉をそれぞれ書き記す。千代子(仮名)は紙に大きく「青春する」と書いた。夢見るとおりアメリカの大学か国内の難関大学か、いずれにせよ受験一色となる時期を目前にして、16歳の青春を思う存分満喫しようという意気込みだった。

 それから約80日後の3月21日、津野千代子(仮名)の両親は上海へ発つ娘を見送った。夜半に出港する高知港から大阪南港へ向かうフェリー(現在は廃止)の出航を確認したあと、千代子(仮名)が母方の祖母と暮らしている家へ立ち寄った。そして主が不在となった部屋で一通の手紙を見つけた。
 それは千代子(仮名)が2月の母親の誕生日に書いたものの、何を思ってか送ることなくしまい込んだ手紙だった。そこには母親に宛てた祝福の言葉のあとで短歌が一首詠まれていた。

― われと同じ 十六歳の母思ひ 青春したかと たずねたくなり

 千代子(仮名)が普段一緒に暮らしていた祖母とその娘である母親はともに短歌をよく詠んだ。あらゆることに積極的な千代子(仮名)でしか書けないような手紙だった。
 時はバブル時代。恵まれた時代に行き、アメリカ留学の夢を抱いていた彼女は、自分と比べてずっと経済的に恵まれなかったであろう母親の少女時代に思いをはせたのかもしれない。

・・・このような眩しいほどの輝きを放っていた少女が上海で理不尽極まる形で命を奪われたのだった。16歳の高校1年生。青春の絶頂ではなく、青春を登り詰める途上での死であった。

 以上が私が考察し、そして私の目に映る上海列車事故である。

※本章の参考文献は以下の資料になります。
・追想―高知学芸高校 上海列車事故追悼集―
・高知新聞連載記事「君ら逝きて」(1988年6月)

※今回の考察シリーズについて、ご意見や事実と異なるというご指摘をお持ちの方は、私のnoteのページやtwitterアカウントに示しているメールアドレスにご連絡ください。

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