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核心・上海列車事故~第5章・南翔病院~

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核心・上海列車事故|上海列車事故の備忘録|note

 上海列車事故において一体なぜ死亡した生徒の身元特定を誤り、こともあろうに生きている生徒を死んだと発表するという絶対にあってはならないミスが起きたのか。
 事故が発生した1988年3月24日夜に「野々村恭子(仮名)という女子生徒の死亡が確認された」という情報がメディアでも流れながら、数時間後に、実は彼女は生存しており誤報だと判明したというこの騒動。
 ここまで4つの章を重ねて整理した時系列や情報をもとに本章にて考察をしていく。

※引用資料中の生徒の氏名は仮名とします。
考察の必要上、「記された名前」以降の文中で遺体の状態に言及している記述があります
※「南翔病院」は中国での正式名称は「南翔医院」だと思われますが、「病院」に呼称を統一することとします。

【結論・南翔病院】

 結論を先に述べる。
 この事故の犠牲者の一人である「津野千代子(仮名・第3章に登場)の遺体を野々村恭子だと誤認した」というのが私がたどり着いた答えである。

 先の第4章において、現地・上海で高知学芸高校の引率教諭たちはどのように動いたのかということを整理している。
 参考資料とした判決文から可能な限り時刻を拾って図表にまとめているが実はあの図表は一点、重要な情報が欠落している。
 日本と中国の上海は時差が1時間ある。日本が上海よりも1時間早いのだ。そして判決文に書かれている時刻は現地・上海時刻である。当然、第4章の図表も上海時刻を記載している。
 つまり日本側の時系列(第2章参照)との比較を試みる場合、どちらかの時刻を前後に1時間ずらさなければならなくなる。

 以下に第4章にて示した上海での教諭たちの動きをまとめた図表を修正した。表の左側に括弧と赤文字で記載してあるのが日本時間である。加えて、一度は死亡確認と報じられた野々村恭子(仮名)に関する情報(第2章参照)を図表に挿入している。それをふまえて改めてご覧いただきたい。

上海列車事故時系列・修正版(画像拡大推奨)

 ここから読み取れることは、「日本時間午後9時過ぎ時点で身元確認が可能だった生徒の遺体は、南翔病院に収容された遺体以外にはありえない」ということである。
 そして第3章にて述べたように、南翔病院に収容された生徒の遺体のうち女子生徒は津野千代子(仮名)の1名のみである。なお、野々村恭子(仮名)と共に死亡が報じられた上村英生(仮名)の遺体が収容された病院も南翔病院である。

 以上をもって、「津野千代子(仮名)の遺体の身元を当初は野々村恭子(仮名)と誤認した」というのがこの騒動の真相であると断定する。

【記された名前】

 それでは一体なぜ、南翔病院に収容された津野千代子(仮名)の遺体を同級生の野々村恭子(仮名)と誤解したのだろうか。これより先は私の推測である。

 南翔病院は上海列車事故の現場から至近にある大きな医療機関である。潰されて閉じ込められた2号車以外の1号車と3号車から何とか脱出したものの、怪我をした生徒が多く、教諭たちは随時それらの者たちを引率して南翔病院へと向かった。
 17時40分(現地時刻)時点で南翔病院には3名の教諭がいた。中川豊、坂本和幸、羽方雅彦の3教諭である。この時点で南翔病院で手当てを受けている生徒は何十名にも上っており、教諭たちは南翔病院に留まって対応をすることとなった。

 やがて病院もしくは行政当局が教諭たちに告げた。「この南翔病院に死亡した生徒の遺体を2体収容している。身元の確認をしてください」と。
 3教諭のうち誰かが、ではなく恐らくはその場にいた教諭全員が遺体を確認したのではないか。非常に気が進まなかったであろうことは容易に想像できる。修学旅行で引率した生徒を死なせてしまうという一番あってはならない現実を突きつけられたのだから。しかし引率教諭としてせめてもの義務を果たそうと、迷うことなく身元の確認を引き受けたことだろう。

 最初の遺体は上村英生(仮名)だと一目でわかった。学年屈指の優等生で、東大進学を確実視されていた生徒だった。一見しただけでは目立った外傷も衣服の乱れもなく、亡くなっているのが信じられないほどだったが、既に体温を失って微動だにしなかった。

 重い気持ちを振り絞って2人目の遺体を確認する。全員が思わず目を背けた。こんなことが許されてよい訳がないと思った。高知学芸高校の女子生徒に間違いなかった。身に着けている衣服は紛れもなく高知学芸高校の制服だった。でも誰なのかは分からなかった。分かるはずがなかった。首から上がなかったのだから・・・。

 教諭たちは呆然として、一旦遺体の安置室を退出した。負傷して手当てを受ける生徒たちの前では平静を装いつつ内心はショックで目が回る思いだった。学校には何と報告すればよいのだろうか。それどころか亡くなった生徒の親御さんに何と言えばよいのか。少なくとも後者に正解がないのは自明だった。
 しかしやがて、教諭たちの気持ちが変わっていく。「あの女子生徒の身元を早く特定してあげたい。それが私たちがあの子にできるせめてものことだ」と思った。

 勇気を振り絞って再び霊安室に横たえられた女子生徒のもとへ赴く。何か身に着けているものにこの子の身元を示すヒントはないかと思った。
 果たしてこのとき、教諭たちは何に手掛かりを求めたのだろうか?名前が書かれている可能性が高いものが2つある。制服と靴である。一般的に制服の上着の胸の内側に名前ラベルがあり、生徒本人の苗字が記されている。同様に通学靴の内側にも持ち主の苗字が書かれることが多い。

 もっとも靴は身に着けていなかったかもしれない。私は事故当時の救助活動を捉えた写真を何枚か見たことがあるが、2号車から助け出されて担架に乗せられた生徒たちは靴を履いている子もいれば履いていない子もいる。例えば本格的な登山靴のような足首まで靴ひもを結ぶような履物ではない以上、事故で激しく衝撃を受けたことにより、もしくは潰れた車体の隙間から搬出される過程で靴が脱げてしまった例が多々あったのではないだろうか。
 次の段落では制服から身元の特定を試みたという推測をしているが、仮にこの女子生徒が靴を履いた状態だったとしても、以下に描写する制服と同等以上の状態だったことだろう。

高知学芸高校の女子制服

 頭部を失ったこの女子生徒の遺体は首から下も無残極まる状態だった。厚手の生地のグレーのブレザーも、その下の紺色のジャンパースカートも、ボタンが襟元まできっちり留められたままの白いブラウスも、その襟にしっかり結ばれた紺色の棒リボンも・・・何年も見続けてすっかり見慣れた制服は、事故のダメージによってすっかり色が変わってしまうかズタズタに破れてしまっていた。元の状態が残っている部分の方が目に見えて少なかった。
 そのブレザーの前を開いて内側を見る。果たして胸の名前ラベルまでもが赤黒いものが染み込んだうえ大きく裂けていた。しかし目を凝らしているうちにどうにか「野」という漢字一文字だけ判別ができた

 南翔病院にいた3教諭のうち、現場から直接この南翔病院へやってきた中川教諭を除く2教諭は、現場からいったん近隣の駅の集会所に向かっていた。ここに脱出できた生徒たちを集めて点呼を取っており、各々が安否不明者のリストを持っていた。
 手掛かりは名前の「野」である。下の名前ではなく苗字であることはまず間違いなかった。そして安否不明者の中で「野〇」という苗字の女子生徒は一人だけしかいなかった。野々村恭子(仮名)だった。日本人離れした目鼻立ちの美人だった。東京の大学に進学して児童教育の道を志していた。いったい野々村恭子(仮名)の両親に何と謝ればよいのか。ただ死なせただけではない。このような酷すぎる死に方をさせてしまったのだ。そのような自問自答をしつつも、何とかせめて彼女の身元を特定してあげることができたのはよかったと思っていた。

【誤報】

 南翔病院の教諭たちは高知の学校や他の教諭に対して、上村英生(仮名)と野々村恭子(仮名)の2名の死亡を確認したと連絡した。
 ところが、夜も深まってから安否不明者の確認のために各地の病院を回り始めた狩野義夫、尾崎光市両教諭が、上海市内の別の病院で死亡したと連絡を受けたはずの野々村恭子(仮名)が重傷を負いつつも生存していることを確認する。慌てて学校や関係各所に誤報だった旨の連絡をする。当然、南翔病院に残った中川、坂本両教諭の耳にも入り愕然とした。

 確かにブレザーの名前ラベルに書かれていた漢字は「野」だった。破れたり血が染み込んでいてなお、この文字だけはハッキリと読み取れた。下の名前に「野」を使うのは珍しいし事実学校の生徒でそのような名前の子は思い浮かばない。当然安否不明のリストの中にそのような名前はない。間違いなく苗字に「野」の字がある子ははずだった。

 そこでようやく気がついた。「野〇」ではなく「〇野」という苗字の女子生徒ではないかと。あまりの惨状を前に気が動転した教諭たちは揃いもそろって「野」が苗字の一文字目だと誤認したのだった。
 それでは安否不明者の中で「〇野」という女子生徒は誰かいるのだろうか。津野千代子(仮名)、谷野顕子(仮名)、長野彩子(仮名)・・・3名以上いた(実際、このうち複数名が死亡した)。これでは誰か分からない。
 もはやこの女子生徒にしてあげられることは、せめてもうこれ以上間違うことなく身元を特定してあげることだけだった。そしておそらく、一番最後に身元が分かる生徒になるであろうと思った。

【身元判明】

 ところが、意外にも早く彼女の身元は判明する。

 懸命の救出活動が続いていた事故現場では、2号車を押し潰した3号車をバーナーで切り離して取り除く作業が行われていた。バーナーの火花が引火する可能性があり、それを防ぐための放水で車内に取り残された要救助者が濡れてしまうというリスクを伴う作業だったが、ようやく覆いかぶさった3号車を取り除いたことで2号車の捜索ペースが一気に上がった。

 幾名かの生存者と何体かの血まみれの遺体が次々と運び出されるなか、救助隊員の一人が潰れた2号車の車内で見つけたのは人間の頭部だった。
 当局が確認したところ、南翔病院に頭部のない遺体が収容されていることが判り、ほどなく同病院へ見つかった頭部が運ばれていった。

 犠牲者のことを何も知らない中国人関係者には、肩まで届かない程度の長さに切りそろえられた髪を持つこの人物の男女の区別すらできなかった。しかし南翔病院に残っていた教諭は一目で津野千代子(仮名)だと分かった。車内から発見された頭部は不思議なほど綺麗な状態だった。
 霊安室に横たわっている彼女の胴体に頭部を添えた。綺麗な顔とズタズタになった制服を身に着けた胴体との対比はあまりにも残酷だった。ほんの半日前まで当たり前のように存在していた、紅顔に笑顔を浮かべて良く通る声を出していた16歳の凛々しい制服姿の彼女を思い出すとたまらない気持ちになった。
 教諭たちは中国の関係者に対して、なんとか遺族に亡骸を見てもらえるような形に整えてほしいとの希望を出した。

 事故翌日の3月25日には高知から遺族たちが上海に到着し、深夜になって我が子との対面を果たした。津野千代子(仮名)の両親が教諭あるいは関係者からどのような説明を受けたのかは分からない。遺体の損傷が酷いとだけ伝えられたのか、それ以上の具体的な説明がどこまであったのか。
 いずれにせよ、両親が目にした愛娘の亡骸は、首には厚く布が巻かれ胴体には何枚もシーツが被せられていたことだろう。そしてまるで眠っているかのような穏やかな死顔だった。

 第3章にて取り上げた「頭部がない女子生徒の遺体がある」という報道と「津野千代子(仮名)の遺骨を抱いた父親が、娘の死顔は綺麗だったと語った」という2つの報道は相反することはなく、双方とも事実を伝えていたのだった。

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