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相手のミスに狂喜乱舞するソフトテニス界の病的慣習

 保育園で場面緘黙を発症した私は、小学校入学や小4での転校という環境の変化がありながらも、緘黙を克服できないまま地元の公立中学に進学した。小学校の同級生が、同じ地名を冠した中学校にそのままエスカレーター的に上がる形となった。
 喋りたくても喋れないという現実に加え、それを理解してくれる人が全くいないことの苦しみは、ここからが本番だった。私は中1から、喋らないことを理由にクラスメートによるいじめを受けたのだが、その前に直面した壁が、部活だった。
 男子生徒のほぼ全員が、運動部に入るという環境下で、私は、ソフトテニス部を選んだ。ヒエラルキーの上から、サッカー部、バスケ部、野球部に入り、次が、ソフトテニス部、最下層が卓球部という学校だった。小5と小6で同じクラスで、喋らない私とも遊んでくれた友達も、同じソフトテニス部を選んだ。

 相手のミスに「ラッキー」

 入部早々、緘黙の私は苦しい状況に置かれた。
 先輩後輩のタテ関係だけではない。部活の練習や試合で、事あるごとに声出しを強要されたのだ。これは、全く予期していないことだった。
 ソフトテニス部では、相手サイドから来た球をワンバウンドで打ち返すストロークの練習を毎日のようにするのだが、例えば、球を打ってもらう前に「来い!」というかけ声を言わされた。打つときのインパクトの瞬間には、男子は「オラー」、女子は「ヤー」と声を出せと顧問の教師から指導された。声を出さなかったり小さかったりすると、「声出せ!」と怒鳴られるのだ。

 試合でも、サーブ前のわずかな時間に、ポイントを先行したいという意味のかけ声で「一本先行!」とか、負けているときは「挽回!」などと言うソフトテニス界独自の慣習があった。
 自分を鼓舞するための声出しなら、まだ理解できる。何よりマナーが悪いのは、試合で相手のサーブが入らなかったり、ゲーム展開で相手選手がボールをネットにかけたりというミスをしたときは、わざわざ「ラッキー」と言って喜ぶのだ。
 団体戦ともなると、もっとタチが悪い。試合に出ていない部員の応援がつくから、お互いの学校で、「ラッキー」「もうけ」などと大声で言い合う。インかアウトか微妙なときでも、先に「ラッキー」と言って、審判にアウトだという自己主張をする。
 逆に、自らがストロークやスマッシュを決めてポイントを取ったときには、相手選手を威嚇するように拳を突き上げて喜んだり、後ろの応援団が狂喜乱舞していた。

 下品極まりない。
 
 と、今なら言える。
 当時は、それが当たり前だと思っていた。相手のミスを「ラッキー」と言って喜ぶことは、正しいことだと思い込んでいた。
 そういう教育だった。
 だが、私は場面緘黙だったから、いくら先生の前でも、そんな大声を出すことはしたくなかった。3年の夏に引退するまで、私は試合中に一回も、「先行!」とか「ラッキー」とか、そんな声出しはしなかった。そんなことに意味を見出さなかった。
 当時、私に反骨精神があれば、顧問の教師に聞くことができた。何のために声を出させるんですか? 何で相手のミスを喜ばなきゃいけないんですか? これが教育ですか?と。

 声出しの強要は、苦痛でしかない。
 中2の後半くらいからだろうか。部活を辞めることもできず、私は嫌々ながら放課後の練習に参加し続けたが、やる気はなかった。試合には出たものの、勝っても負けてもどっちでもよかった。
 中3のとき、団体戦に出るレギュラーから外されても悔しくなかったが、代わりにレギュラーになって試合に出た後輩に対しては、心の中で「負けろ!」と言っていた。後輩がミスしたときには、もちろん口には出さないが、「よし!」と誰にも見えないように小さくガッツポーズした。
 人のミスを喜ぶ。私にとってソフトテニスとは、そんなスポーツだった。

 これは、25年以上前の中学校ソフトテニス部の話だが、今もそれほど変わっていないのだろう。You Tubeで学生や社会人の最近のソフトテニスの試合を見ることができるが、馬鹿みたいにうるさい人はいまだにいることが分かる。

 やっぱり、下品なスポーツ、そして下品な人たちだ。

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