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必死の説得


       翌日の日曜日、僕はまず実家の厳格な父親に事の次第を打ち明けることを心に決め、早起きして8時半には1人で車に乗って実家に向かった。実家は住んでいたマンションから車で15分くらいの所だ。実家に到着し、玄関に上がると父親が普通に出迎えてくれた。

       母親は買い物で留守にしていた。ソファに座るよう言われ、僕は腰を落ちつかせ、近況などを報告してから本題に入ることにした。

      「実は今の仕事をやめようと思うんだ」と、僕は意を決し厳格な父親に言った。以前、銀行員であった父親は真面目で、細かいことに厳しく、僕はこの日も相当なことを言われるだろうと十分に覚悟していた。ところが、父親は予想に反して、

     「どうするんだ。もう知らないぞ」と冷静に僕の目を見て静かな口調で言った。

    「実はイギリスに行って、ジョージの助けを借りて空手道場を経営しようと思っています」と僕はなぜか敬語で言っている自分に気づいた。よほど緊張していたのだ。

「イギリスでジョージと?」

と、驚きと少しの安心感のようなものを伴った響きで父親は言った。ジョージはその数年前に来日し、実家に10日ほど滞在していたことがあったのだった。ジョージが日本に来たいと言っていたので、僕の夏休みの期間に来てはどうかと誘い、東京の街を案内したことがあったのだった。当然、父親とも交流を交わしていたからだった。少しの沈黙の後、

「そうか、由美さんも承知なのか?」とさっきよりも穏やかな表情で言った。

「そうだよ。承知しているよ。由美の母親には、この後話をしに行くんだ」と、僕は少しほっとして言った。

「イギリスにはいつ行くんだ?」

「来月、4月から行くよ」と僕は言った。

それからしばらく沈黙が続き、父親は僕から目をそらし、少し考えてから、

「詳しく決まったら、また連絡しろ」と僕の目を見て穏やかに言った。

「わかった。また連絡するよ」

と僕は言い、30分も経たないくらいで実家を後にした。僕は翌日、今度は由美を連れて由美の実家に挨拶をしに行くことにした。

       翌日の日曜日午前7時に僕は目を覚まし、軽く食事を済ませてから、早々に由美を連れて車に乗り込み、由美の実家のある豊洲へ向かった。埼玉の富士見市に住んでいたので、そこからだと首都高速の大宮線入り口に乗るために、国道17号線を目指して走った。高速道に乗ると、さすがに日曜なので空いていた。快晴ということもあり、僕は窓を少し開けた。春先の暖かい空気と春の匂いが感じられた。そのおかげもあって、さっきまで緊張していた気分がややほぐれた感覚があった。  

       40分ほどして新富町出口を出て、5分くらい走ると由美の実家であるマンションに到着した。そのマンションはかなり年数が経っており、昭和という言葉がしっくりくるような建物だった。時間は9時半を少し回っていた。ベルを鳴らし中に入ると、由美の母親が愛想よく出迎えてくれた。60を少し越え、小柄でややふくよかな優しそうな女性である。

   「こんにちは、お母さん、失礼します」と僕はやや緊張しながら言った。

   「こんにちは、どうぞ入ってください」と、穏やかなトーンで由美の母親は言った。その挨拶の後、僕は少し緊張から解放されたような気がした。しかし、奥の部屋に案内されると、そのちょっとした安心感が一気に吹き飛ばされてしまった。

   「こんにちは」と言って、僕に鋭い視線を向けてきた男性が目の前に立っていた。それは年配の父親ではなく、由美の兄であった。由美の父親は数年前にがんで他界していた。今では兄が父親代わりのような存在になっていた。由美の兄は年齢が30半ばくらいで、身長165くらいの細見の男性だった。名前は達也といった。

  「こんにちは」と僕は、気を取り直して言った。

  「まあ、座ってください」と達也は力のこもった声で言った。僕は黒の革張りのソファに由美と腰かけた。

  「由美から聞いたんですが、直人さん、学校やめてしまうんですか?」と達也は唐突に本題に入ってきた。もちろん、僕から言おうと思っていたことだが、相手からストレートに聞かれると、慌ててしまうものだ。僕はなんとか冷静さを取り戻そうと努めた。

  「はい、3月いっぱいで退職して、イギリスで空手道場を開こうと思っています」と僕は勇気を持って言った。目の前の2人は、あらかじめ由美の方からそのことを聞いていたようなので、僕の父親のようには驚かなかった。

  「毎月の月収はいくらになるんですか?」と、由美の父親代わりの兄は容赦のない質問で攻めてきた。

   「最低でも30万は稼げます」と、僕は無難な返答をした。

それは根拠があると言えばあるのだが、確証のない返答だった。それでも、この唐突な質問に対してはそう答えるしかなかった。達也はその返事を聞いても、表情は納得したものではなく、再び僕を追い詰めるかのような質問をしてきた。

    「直人さん、イギリスへ行って、ちゃんとした生活ができるんですか?いきなり今の仕事やめて、イギリスで生活するって言われても、由美の身内としては不安でしかないんですよ」と達也がさらに強い口調で畳みかけるように言ってきた。僕はたまらずソファから立ち上がって、それこそ頭を垂直になるくらい下げて言った。

    「由美は僕が命がけで守るので安心して下さい!」と僕も大きな声を腹から出して、必死に自分の意志を伝えた。僕も達也をなんとか納得させようと必死だった。するとそれを聞いた達也は、やや表情が柔らかくなった。

「直人さん、その言葉が聞きたかったんですよ。それを聞いて少し安心しましたよ。由美をよろしく頼みますよ」と達也は先ほどとは打って変わって笑顔で言った。僕はそれを聞いてようやく安堵感を覚え、ソファに腰から落ちるように座った。その後は達也とも少し打ち解けた雰囲気の中、今後の予定などについて落ち着いて会話ができた。また、それ以外のことでも歓談し、2時間くらい過ごしてから由美と車に乗って由美の実家を後にした。

(~続く)


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