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【HSS型HSP】の私が精神バランスを崩して人と距離をとった話

私はHSPである。

厳密に言えばHSS型HSPの気質を持っている。

今日はそんな私が精神バランスを崩して人と距離をとったはなしについて話していきたい。

その前にHSPとHSSについてわからない人のために説明しておこうと思う。

HSPとは

HSPとはHighly Sensitive Person(ハイリー・センシティブ・パーソン)
の省略で簡単に言うと「繊細で敏感な性質を持つ人」です。
HSPは環境や性格などの後天的なものではなく、先天的な気質、即生まれ持った性質であることがわかっています。統計的には人口の15%~20%。5人に1人があてはまる『性質』であり、稀ではありませんが、裏を返せば、約8割の人はこの性質にはあてはまらないため、HSPの特性は共感を得ることが難しく、HSPでない人たちとの差に自己嫌悪を感じることや、まわりに合わせようと無理をして生きづらさを感じやすくなる性質といえます。
http://www.madreclinic.jp/pm-top/pm-symptom/pm-symptom-22/


HSSとは

HSPの中でもその3割を占めるのがHSS型HSPである。

HSSとはHigh Sensation Seeking(刺激探求型)のことで、どちらかというと外向的で好奇心が強いタイプ。「非常に敏感なのに刺激を求めてしまう人」です。
https://studyhacker.net/high-sensation-seeking


この2つの気質を持っているとどうなるかというと
外交的でありながら、人といるのが疲れたり、社交的に見えて本当は内向的であったりとたくさんの矛盾を抱えながら生きていくことになる。

そんな私はというと外は人と関わるのが好きで活発になるが、部屋に帰ると一人で部屋にこもることが多かった。

幼少期も、家に家族がいても一緒にいる状態は少なく部屋で1人の時間を過ごしていた。

外は人が触れ合う空間に接しているためできるだけ一人の時間を確保していたのだ。

人と会うための充電期間とも取れるかもしれない。

HSS型HSPの特徴
刺激は求めるが ⇔ 外に出ると疲れる
やらなきゃわからないと思うが ⇔ いろいろ想像すると踏み出せない
やる気満々で物事に取り組んでも ⇔ 飽きやすくゴールにたどり着けない
はたから見ると元気で外向的で社交的 ⇔ 本当は違う
冷静に見えるが ⇔ じつはイライラドキドキひやひやしている
人とすぐに仲良くなるが ⇔ 少しすると距離ができる
ハイテンションなのに ⇔ 小さな発言にクヨクヨ悩む
自虐ネタを披露するのに ⇔ いじられると傷つく
大胆なくせに ⇔ 小さなミスを後悔する
好奇心が強いけど ⇔ 警戒心も非常に強い
自己肯定感は低いが ⇔ 心のどこかに自信もある
(※心理カウンセラーの時田氏が代表を務める「HSP/HSS LABO」サイトより抜粋し要約)
https://studyhacker.net/high-sensation-seeking



その他にも、私はたくさんの矛盾ある感情と向き合いながら生きている。

この矛盾がもつバランスがどちらかに片寄れば自然と精神が破壊されるのも頷けられるだろう。

また、この矛盾の面白いところはどちらかに片寄ったとしてもいずれは元に戻るという点である。

偏りすぎた天秤はそれだけ元に戻す労力が必要なだけであり、それは表裏一体と言わんばかりに偏ったバランスを取り戻そうとする働きを持つのである。



さて話は戻り、精神バランスを崩して人と距離をとった話についてだが

これは私が大学二年6月頃の話である。

その頃の私はというと大学の陸上部に所属しており、学生寮の同じ棟で生活していた。

その頃は、よく部屋に陸上部の仲間が毎日のようにやってきていた。

はじめは人付き合いは大事だと考えていたことと人と接せれる嬉しさで招き入れていた。これは表裏でいう表の状態である。

しかし、表に天秤が偏りが傾きすぎるということは相反する一人になりたいという裏の状態の気持ちをないがしろにすることをも意味する。

されど出会って一年やそっとの人間にその性質をもっていることなどわかるはずもない。

ましてや自分自身ですら知らなかったのだから。

招き続けた結果、ストレスのピークに達しプツンとなにかが事切れたように、私は周りのとのコミュニケーションを避け、部員らに分かりやすいくらいに距離をとった。

あの時の私はその行動でしか感情を出すことがでになかったのだ。


最低限の会話で常に鍵をかけ、ノックしてもでないようにしていたし、食堂も陸上部とは距離をとって食事をするようにしていた。

すぐ収まるだろうと我ながら考えていたが、驚くことにその状態は2が月ほど続いた。

今思えばしっかりと一人の時間が欲しいからと言えばよかったと思う。

あのときの私はみんなの顔色ばかりを伺いすぎて自分の気持ちを言うことを遠慮してしまっていた。

しかし、その状態を元に戻すきっかけが現れる。


それは、最近流行りのコロナウイルスである。

私は、その年の夏帰省した際にコロナにかかった。

その時かかったのはデルタ株である。

かかった株は症状が強いのか1ヶ月ほど苦しい状態が続いた。

そして何より私を苦しめたのは、2週間の接触禁止である。

その間、私は世間から遠ざけられた。

関わる方法と言ったらスマートフォンの小さい縦長の四角いスペースだけであった。

その時

人は寂しさに生きる生き物なのだと感じた。

それはまるで私をはれもの扱いするような疎外感を与え、いっそう独りを感じることとなった。


その時と同時に、心に「久しぶりに人と話しがしたいな」という気持ちが現れた。


そう、



この機を境に、ようやく私の持つ矛盾の天秤は元に戻ろうと傾き始めたのであった。



隔離されて10日程の事、くるみから電話があった。

特に前触れもなくLINEの着信音が音のない家の大広間に響いた。

私はなにも頻繁にやり取りしているわけではない。私の置かれた状況と孤独の寂しさを知っていたと言わんばかりのタイミングで非常に驚いた記憶がある。

ちなみにくるみとは昔ながらの友人である。

私が暮らしていた場所は、離島ということもあり小中高とエスカレーター式で上がっていく。

くるみもまた同じエスカレーターを登った中である。

くるみからの唐突な着信になんの電話だろう?と不思議の疑問もさることながら電話を取る。


すると、返答はシンプルに元気かと思ってかけたとのことだった。

私はなんともタイミングのいいヤツなだと、言葉とは裏腹に心底嬉しい気持ちになったのを覚えている。

とはいっても話したことに特別な内容などはなにもない。

ただ、お互いの近況やこれからのことについて、ときおり言葉遊びのいじりをいれながら昔ながらのように話すだけであった。


今思えばくるみはいつから一緒にいただろうか?



私が覚えているのは小学校の頃、小学校3年生辺りだろうか?その頃の掃除時間前に階段でグリコをしたこととわんぱく相撲が強かった記憶ぐらいからしかない。

男子に混じって巨神兵の如く体格差のある相手にも勇猛果敢にバッファローのごとく突っ込んでいったのを深く覚えている。

あの頃の僕だったら秒で外に出されていたに違いない。



相撲のいいところはいい試合も悪い試合も少ない時間で済むところだ。

私が土俵を降りることと関取の如くある体格差のある人間と戦えるのはなにか?と考えたときに

時間だけが唯一勝負できそうだなと考えていたのを覚えている。

そう思わせるほどに、くるみの相撲は私の勝利を諦めさせることに十分な力をもっていた。


さて、そんなくるみも今じゃわんぱくなイメージとは打って変わってすっかり可愛らしい大人の大学生である。

なんなら頭もいい。

人当たりもよく、どこでもやっていける人間だと思う。そしてくるみはバンドをしている。一回でいいからくるみの所属しているバンドを見に行きたいものである。

昔を知るものからすれば嘘だろう?と驚かれることだろう。

くるみの友人たちにくるみがわんぱく相撲が強かった話とかしてやりたいと思ってしまう。


そんなくるみとの記憶を思い出しながら話をしているとあっという間に時間が過ぎていった。


苦しいときに声をかけてくれる存在はでかい。


くるみは私が人とつながりを感じるのが好きだという表立った性質を元に戻すきっかけを与えてくれた。


私はこのとき、1年後に陸上をやめるという非常に重要な決断をするのだが、その話は又次の機会で話そうと思う。



隔離から2週間たち、ようやく外に出ることができた。

久々の外は新鮮で落ちきった体力とは裏腹にこれでもと外に出て体を動かそうとしたのを覚えている。

このときは落ちきった体力なのか酸素が取り込めないのか、散歩をするだけで頭が痛く、呼吸も苦しくなり、帰ってからはずっとダウン状態の繰り返しであった。

陸上をやってたこともあり、体力においての普通のハードルは高いのもあると思うが、普通にもなれず、ここまで体がぼろぼろになると流石に落ち込む。

ようやく体を動かせても歩くので酸欠になるような状態で急に体を動かしたからなのか、また体がダウンし、なかなか外に出られない状態が続いた。

しかし、あと一年、みんなを楽しませながら陸上を終えたいと言う気持ちから比較的楽に立ち上がることができた。

あと一年私はどうやってみんなに楽しんでもらいながら終わらせられるだろうか。

私は一人そうした楽しむという感性に耽る時間が好きだと気づく。


島から大学に戻り、部員らと1ヶ月ぶりくらいに顔を合わせた。

はじめはぎこちなさがあったがすぐに慣れた。

人避けも治まったし、普通に話せるようになった。

人避けをしたことで離れていった人もいたが、私から拒絶したし、それは私が私を知らなかった責任と、しっかり人に歩み寄らなかったことが原因であるため、仕方のないものだと受け入れている。

あのときは私が拒絶したものと捉えたに違いない。実際そうなのだから否めない。

今さらながら懺悔をここに記させてほしい。

あのときは本当にすまなかった。



今回のきっかけを機に私は私と向き合い始めるようになる。

私とはなにか?

存在とはなにか?

死とはなにか?

そうした問が新たに私という存在を際立たせ始める。

今では自己分析を始め、自分の性格との向き合い方もできるようになり、常に安定した状態に保つことができるようになった。

自分が客観的にわかることに先人たちの知恵に感服すると同時に知られてしまう恐ろしさを感じる。

これも私のもつ矛盾の感情なのだろうか?


人格形成は青年期が8割と聞く。個人的に20歳で自分を知るように努めるきっかけを与えてくれたことはいい経験であったのではないかと思う。



最後に、
苦しいときに助けてくれたくるみに感謝の伝えてこの話を閉めようと思う。

あのとき電話をくれてありがとう。

本当に嬉しかった。






















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