しんたろう

薄らぼんやりとしています。写真と絵が好きです。それ以外も好きです。トマトが嫌いです。

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薄らぼんやりとしています。写真と絵が好きです。それ以外も好きです。トマトが嫌いです。

最近の記事

腕の長さ+1歩

毎日いろんなことが起きていて、いろんなことを考えてしまう。 スマホやTVニュースや日頃の会話なんかからたくさんの情報を仕入れては、 消化することも吐き出すこともできない。 情報肥満体質になっている。(内臓脂肪も気になる。) 気になる事は何もデバイスの向こうで起きていることだけではない。 本来であれば自身の事で手一杯だ。 家事や仕事、健康維持、ライフステージに変化がないことの焦りなどなど。 そういったことも解決出来ないのに、 社会で起きていることにも目が向いてしまう。 目が2

    • 「悪そうなやつ」と友達になる。

      世の中では「良い」と「悪い」の他にも色々な基準で判断される。 「良さそうだけど悪い」とか、「すごく良い」とか。 それらはギャップとして捉えられたり、単純な褒め言葉として使われる。 (そして、ここで言われる「良い・悪い」は精神的な事象に対してであって、人に対しての話しではない。悪い人と友達になってはいけない。) ここでとても厄介なのは「悪そうなやつ」である。 「悪そうなやつ」は一般的に悪いと思われていたとしても、実は悪くない。 例えば、欲が強い事や執着心が強い事、怠惰であ

      • 賞の隣。

        世界には数多の賞がある。 スポーツの世界にも、科学の世界にも、芸術の世界にも。 「順位」ではなく「賞」である。 その賞に輝いた人や論文や作品は多くの人から賞賛され、時には賞金などもあり、後世に名前が残ることすらある。後世に名前が残らなくとも、地域でちょっとした有名人になったり、ネットにちょっと掲載されたりする。 「賞」は大変、誉である。 時には、賞に輝く前の「ノミネート」の段階で、高い評価の証明に繋がることがある。それは、その賞自体が最高峰であればあるほど「ノミネート

        • 「いつもの事」で楽しい事。

          毎日は、 たくさんの「いつもの事」と少しの「いつもじゃない事」の 積み重ねでできている。と、思う。 そして、「いつもじゃない事」は何度か続くと「いつもの事」の 仲間入りをする。 自然と「いつもの事」が増えていき、 「いつもじゃない事」が減っていく。 「いつもの事」として見慣れたり聴き慣れた事は、気に留めなくなり、 見逃したり、聞き流すようになる。 すると、刺激として捉えなくなるので、 毎日はつまらなく感じ、一年は早く感じるようになる。と、思う。 毎日がつまらなくなりすぎ

        腕の長さ+1歩

          中途半端。

          自分が仕事にしていることは好きなことなのか? 決して嫌いなことではないし、そう思えるだけでも十分なのかもしれない。 しかし、生活の中に仕事以上に好きなことは山ほどあるし、自分が好きなことを仕事にして生活をしている人には盲目的に憧れる。 ということは、自分にはもっとしてみたい仕事があるのかもしれない。 けど、転職活動はしていない。 今の生活を変えるのが怖いから。 嫌いで辞めてしまいたいと思うほどではない仕事、不満を覚えるほどではない給料と福利厚生。ほどほどに生活しやすい一人

          中途半端。

          思うところ。

          この文章とその内容は全て素人考えである。 僕は電気グルーヴもピエール瀧も好きだ。 コカイン使用のニュース速報を見たときはショックだったし、それでもどこかで納得している自分もいた。 それは自分が知っている限りにおいてピエール瀧はアウトローに近いところにいる気がしていたからだ。それが魅力でもあり面白さでもあった。 ニュース速報から数日が経過すると様々な意見が出てきた。 もっとも話題に挙がっているのは「個人の罪が作品に影響するか」である。 作品の公開中止を望む方もいれば、作品に

          思うところ。

          『うまくやる』ことの難しさ。

          仕事をしていると、 「うまくやる」ことをまあまあ求められる。 「そこはうまくやらなきゃ」とか「うまくやっておいてね」とか。 その言葉の意味は一概に「仕事をちゃんとする」だけではなさそう。 「ちょっとした悪いことはバレないようにね」とか 「こっちに少しいいように調整してね」とか 「少しずつ手を抜いて仕事量を減らして要領を良くする」とか 少しほんとはダメなことを全員がこっそりやりながら、 全員が全員の「うまくやっている事」に目を瞑っている。 しかし、 全員が目を瞑り許してく

          『うまくやる』ことの難しさ。

          経年劣化

          最後にnoteに文章を投稿したのは2016年のことである。 その頃は私はまだ学生であり、持っていたスマホも2台前のものである。 そのスマホは今やうんともすんとも言わなくなった。 なぜ約3年も投稿をしていなかったかというと、 様々なSNSが台頭してきたり、社会人になって文章を書く余裕が 精神的にも肉体的にもなかったのかもしれない。 時間も体力もあったけどサボってただけかもしれない。 どちらにしてもこの3年でスマホは2台買い換えて、 1度引越しをして、車を購入した。 どれも新

          3分の価値と継続性

          インスタントといえばカップラーメンで、 カップラーメンといえば「3分」が定番だと思う。 お湯を注いでから2分だと早いと思うし、 4分と書いてあると「長めに待たすとは美味しいんだろうな」と思う。 カップラーメンは引き続きそれでいいと思うが、 他の製品や流行はいかがなものだろうか。と思う。 待ち時間は短く、次から次へと新しいものが現れては去って行ってしまう。 コンビニに並ぶ製品やテレビやネットで流れるニュースも御多分に漏れず、 とてつもない速さで入れ替わっていく。 それはもう

          3分の価値と継続性

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          鎌倉散策

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          この秋の紅葉、見納め。

          この秋の紅葉、見納め。

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          『文才』とはなんぞや。

          今、『文才』というのがどういった才能なのか。 すごく考えている。 というのも、大学の卒業論文を目下熟すべき課題として抱えているからだ。 まず、文章を書いていて強く感じる事は「日本語を正しく扱えているか。」である。 俗にいう「ら抜き言葉」や「である調」の統一などは気が抜けば出来ていないこともしばしばある。 (今は特に便利なので、Wordなどを利用していれば間違い箇所に波線が出るようになっていて、間違いに気づきやすいが。) しかし、これらが完成されている文章が読み易い文章かと言

          『文才』とはなんぞや。

          少し暗めの明るい時間

          少し暗めの明るい時間

          写真と思い出。

          今日自分で選んだ一枚はある寒い日に友人二人に写真を撮らせてもらうことをお願いして横浜に出かけた際のモノである。 写真を撮ることを趣味にする人として、友人などを撮る事がとてつもなく楽しいわけだが、写真を撮ることをお願いすることは一つ難しいものである。撮られることが好きな人がいればそうでない人もいるし、撮る僕との関係性や距離感も現れてしまうからだ。 そんな中でこの写真は、自分との関係性や距離感もさることながら、前をつかつかと先んじて歩いてしまうせっかちな一人と、のんびりゆっく

          写真と思い出。

          写真と思い出。ノ写真

          写真と思い出。ノ写真

          写真と思い出。

          今日の写真は自らの誕生日を高校からの友人たちがお祝いしてくれた際の道中にて撮影した一枚。 もともとは吉祥寺に初上陸すると聞かされていたのに、まったくもって方向の違う電車に乗せられ、ついた先は葛西。 そこでおいしいパスタランチを頂き、その足で向かうは葛西臨海公園。そのパスタ屋さんをでて駅に戻るときに撮ったのがこの一枚。 この日はその後も観覧車に乗り、水族館に行き、公園を散歩して、晩ごはんを頂くという贅沢サプライズプランを2人に提供され続けた。筆舌に尽くしがたく楽しい日であ

          写真と思い出。