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「悪そうなやつ」と友達になる。

世の中では「良い」と「悪い」の他にも色々な基準で判断される。
「良さそうだけど悪い」とか、「すごく良い」とか。
それらはギャップとして捉えられたり、単純な褒め言葉として使われる。

(そして、ここで言われる「良い・悪い」は精神的な事象に対してであって、人に対しての話しではない。悪い人と友達になってはいけない。)

ここでとても厄介なのは「悪そうなやつ」である。

「悪そうなやつ」は一般的に悪いと思われていたとしても、実は悪くない。
例えば、欲が強い事や執着心が強い事、怠惰である事などだ。欲と言っても、食欲や性欲、物欲など様々な種類がある。しかし、どの欲が強くてもそれ自体は決して悪いことではない。時には歓迎され得る良い事である。

時に、その欲に溺れてしまい物事や人間関係を上手に進めることができなかったり、執着心が強い故に周囲に迷惑をかけてしまうことがあるかもしれない。怠惰に過ごす事で会社をサボってしまう日があるかもしれない。それらの結果が悪いかどうかは度合いにもよるが、「悪い」の一言で一刀両断してしまうのはあまりに短絡的ではなかろうか。(いや、ある。)

「悪そうなやつ」が完全な「悪」になる瞬間は、その結果故に自身を肯定できなくなった時であると思う。物欲が強くても、その欲を満たす為に仕事を頑張り、購入にたどり着けるなら、その努力の源流となる物欲の強さは歓迎されるべきである。しかし、その物欲を満たす為に不必要な借金をして、自身の首を絞め、肯定感を損なってしまうようであれば、それは「悪そうなやつ」が「悪」に変貌してしまっている。食欲も性欲も執着心も、全て自分の肯定感を高められるならば、それは決して悪くない。自分の精神を削るものとなっていればそれは悪である。

欲が強いことは恥ずかしい、執着心を持たない人はスマートに見える、などシュッとしていることに憧れる風潮があるが、ある意味でシュッとしていることは退屈にも思える気がする。何かに固執して、何かを目指している方がいい汗をかける気がする。気がしているばかりで根拠はないけども。

少なくとも、「悪そうなやつ」のせいで苦しむことはない。その「悪そうなやつ」と付き合って行く中で、その結果が辛く苦しいなら考えなければいけないが、そうでないのであれば反省など不要だ。

世の中にあるそこそこ硬いものは全て人を殺し得る殺傷能力を持っていると思う。(バールのような物的な。)しかし、全てが規制されていないのは、誰もそれで人を殺さないし、殺そうとも考えないからである。殺すことや殺されることをイメージしやすい物だけが規制の議論をされ、実際に規制される。「悪そうなやつ」も結果次第では「悪」になることが想像されやすい為に「悪そう」であるとイメージされている。

しかし、どれもこれも使う人と使い方次第である。
銃も時に人を殺さず人を守るのである。(銃社会を肯定してはいない。)
「悪そうなやつ」それ自体に振り回されず、骨髄反射で反省することで思考を止めてしまわずに、「悪そうなやつ」の中身とそこから得られる結果を冷静に見つめたり考えたりする中で、それが「実はいいやつ」なのか「本当に悪いやつ」なのかを判断したいところである。

「悪そうなやつ」をそのイメージで突き放してしまわずに、友達になり、実はどんなやつなのかを知れれば、生活は精神的に幾分か過ごしやすくなるように思う。もしかしたら、思ってたよりも仲良くなれるかもしれない。

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