科学の欄から窺える日本の研究の衰退

私は15歳の頃から新聞の科学の欄を収集している。読売、毎日、産経も試してみたが、朝日新聞が科学の欄は一番充実していたので、基本、朝日。二十歳頃から日本経済新聞の科学の欄も収集するように。収集歴は三十七年になる。その歴史を通覧してみる。

朝日の科学の欄は、昔、ミチミチに新しい発見が掲載されていた。しかし小泉政権が終わる頃からか、内容がどんどん貧弱に。収集するに値しない内容に劣化したことがあり、朝日新聞にメール送って文句言ったことが2回。当時で二十年も収集してる読者の意見は重みもあったのか、まもなくマシになった。

しかし、日本経済新聞の科学の欄を見ていても、小泉政権が終わる頃から面白い発見が減少していく様子が看て取れた。大学や企業からの新技術に関するプレスリリースや学会発表が減っていることが推察された。

今は朝日も日経も、特定のテーマを掘り下げた記事で科学の欄を大きく埋めるスタイルが増えた。以前のように「新しい発見のためになんとかスペースを確保」という感じがなくなり、紙面が余って仕方ない、ということが紙面の変化からも看て取れた。

企業の方に聞くと「開発に求められるスピードが加速している」というのだけど、焦って急ぐ割に成果が出なくなってる気がする。特に2000年代後半からはひどい。めぼしい発見が非常に出にくくなっている。そのことが、科学の欄のスカスカぶりから看て取れる。

上から急かされ、慌てさせられ、すぐ実用化しろと言われ続けた結果、かえって成果が出にくくなっているように思う。研究というのは、どっかりと腰を据え、余計な実験も取り組みながら進めた方が思わぬ発見ができるもののように思う。しかし「余計なこと」をせずに脇目も振らず集中しろと言われて。

余計なことから思わぬ発見、という「セレンディピティ」が出てこなくなった気がする。私は以前は、もっと余計な実験をして楽しみ、そこから様々な発見をしてきたが、余裕をどんどん失ってきている(それでも遊んているが)。同じようなことが全国的に起きている気がする。

研究は、研究者が好きでのめり込むのは構わないとして、他人から急き立てられてよい仕事が出来ると思えない。研究は、好きでやらせてもらえるから発想が伸びやかになり、四六時中研究のことばかり考える研究者が生まれる。しかし他人から急き立てられると多くの場合、やっつけ仕事になり、仕事の時間が済んだら考えることも嫌になり、その分、発想が枯渇する。好きこそものの上手なれ。研究は、誰からも強要されないときに最もパフォーマンスを発揮するという、厄介な性質がある。それは創造的な仕事の場合、共通しているように思う。

強制されたお勉強がキライになるように、成果を強要された研究者は嫌気が差してしまう。
誰からも強制されない学びは楽しくて仕方がないように、成果を強要されない研究者は誰から何も言われなくても研究にのめり込む。本来、研究というのはものごっつう楽しいもの。ほっといてものめり込む。

なのに他者から強要され、評価され、で、研究という世界から魅力が失われ、楽しさが損なわれ、日本の開発スピードが急ブレーキ受けた感。
新聞の科学の欄と、私の実体験と、周囲の研究環境を見ていると、さもありなん、と思わずにいられない。

追伸。
研究開発には、公的にも企業もかなりの投資をしている。金額だけ言えば、1990年代よりも投資しているかもしれない。しかし研究成果は確実に90年代より出にくくなっていることが、科学の欄からも窺える。なぜ研究費は増えているのに成果は出にくくなっているのか?3つ原因が考えられる。

一つは、「手っ取り早く製品化できる成果を」強く求めるようになったこと。小泉政権から顕著に。いつ成果が出るか分からない研究には研究費がつきにくくなり、すぐ成果が出そうなものに研究費が集まるように。しかしこれほどお金のムダはなかったように思う。成果のすぐ出るのはほっといても出る。

だって、あらかたデータは出てるし、商品化が見えてるのだから、儲かると思えば誰でも身銭切って投資する。そこに研究費投じたら単なる金の無駄遣い。けれどこれが小泉政権以来、ずっと続いた。本当は、お金の生まれない基礎研究にお金を投じ、成果が出るのが当たり前な出口はほっときゃよかったのに。

2つ目は、競争的資金にしたこと。「競争させれば研究者は必死になって働くだろう」という安直な発想で、研究者を追い立てた。しかし「こんな研究します、こんな成果が出ます」と申請して手に入れる競争的資金は、成果を約束してしまうがために、確実に結果の出る研究をしようとする傾向が強まる。

しかし確実に成果が出るということは、すでに分かりきってることをやるということ。研究は、どんな結果になるか読めないのに取り組むのが研究なのに、結果が出そうなことに取り組むのは、研究を放棄しているようなもの。しかし競争的資金を得なければ研究室の電気代さえ払えない環境に追い込まれ。

成果の着実に出そうな研究テーマばかり出てくるようになったと感じる。研究が小粒に。しかも結果が目に見えるような、分かりきったものに。新しさが乏しく。しかしそれではさすがに研究費は当たらない。で、文章が巧みで、いかにもスゴくて、目新しいことに取り組むかのような作文力のある人が。

私が感じるのは、競争的資金を取るのは作文がうまくないとダメになってきていること。これは逆に言えば、作分のうまさで研究費を取ってる人もいるということ。それを感じる研究もチラホラ。巨額の研究費を取っているけど成果はありきたりで、でも発表がうまいのでスゴイ感を出してる。

けれど作文が上手ではなく、成果発表もうまくないが、実に素晴らしい研究をする人のところに研究費が集まらない。これでは真の意味で研究成果は出ない。これも日本から研究成果がでにくくなってる原因のように思う。

3つ目は、強要、強制。小泉政権で「強いリーダー、かっこいい」と勘違いしたリーダーたちが、日本全国で横暴になった。リーダーに楯突くのは抵抗勢力とレッテルを貼り、リーダーに従順にならない奴は徹底して攻撃して構わないし、命令どおり人を動かして構わないと考える人間が急増。

日本は本来、部下が思う存分に腕を振るえる自由な空間をリーダーが確保し、外からの攻撃はリーダーが一切を引き受け、問題が起きればリーダーが責任を取って腹を切る、というリーダーが多かった。部下はリーダーに感謝しつつ、必死に成果を出すべく頑張る、という構図だった。しかし。

しかし小泉政権以降、リーダーが自分の万能感を味わうために部下をアゴで動かし、命令に従わない人間を排除することが抵抗勢力との戦いであると思い違いし、責任を部下に押し付けるのが強いリーダーシップだと勘違いする人が増えた。現場、大迷惑。

しかし研究者というのは、強要されないから好きで研究のことばかり考え、四六時中研究ばかりして成果を出す生物。なのに強要されたことでイヤになってしまう。しかもリーダーが研究のこと分からないクセにあれをやれ、コレをやれとお山の大将として命令する。それをやっても無駄なのに。

研究と強制はものすごく相性悪いのに、ミニ小泉が「強いリーダーシップ」のつもりで命令強制ばかりするようになり、研究現場が荒れた。企業の方からも、公的研究機関でもそうした惨事を山ほど聞いた。日本の研究がダメになったのは、狭量なリーダーが増殖したため。

この3つを逆転させなければ、日本の研究開発力はいつまで経っても回復しないと思う。もうすっかり壊れているのだけど、せめてこれからの人には、マシな研究環境を残してやれれば、と思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?