富裕層と貧困層の関係性をデザインし直す

関係性から考えるものの見方、多分第19弾。
竹中平蔵氏は、富裕層と貧困層がウィンウィンの関係を築けるわけがない、と考えているらしい。貧困層にはひたすら「足を引っ張るな」という。まるで富裕層だけが経済を上向かせる力だと言わんばかりに。しかしその発言で、富裕層と貧困層を分断させている。

富裕層と貧困層がかつてウィンウィンの関係性だった時代がある。戦後昭和。第二次大戦が終わったころ、世界中で共産化の風が吹き荒れていた。戦前、富裕層と貧困層との格差は極限に達し、それが共産主義やナチスを生み出す原因にもなっていた。その余波が戦後にも続いていた。

このまま放置すれば世界中がドミノ倒しのように共産化するかもしれない、というドミノ理論が信じられたほど。富裕層と貧困層との格差を放置し、富裕層への憎しみを増幅すれば、共産化は避けられない。そう、西側資本主義国は恐怖した。そこで西側諸国は、ケインズの提案に乗った。

ケインズは、それまでの自由主義経済の考え方を修正し、富裕層に一定の負担をしてもらい、貧困層の生活を楽にする再分配を意識した経済システムに移行するよう提案した。いわば修正資本主義。富裕層は「共産化して全財産没収されたり、殺されたりするよりはマシ」と考え、これに飛びついた。

特に戦後昭和の日本は、このケインズ流修正資本主義が上手く機能した。富裕層は「長者番付」に名前を掲載されることで名誉欲を満たせると同時に、高額納税で社会に貢献しているという感謝と羨望を身に受けることができた。また、経営者も、地域自治体から強く雇用を求められた。

市長や県知事から、「なんとか雇用をお願いします」と頭を下げられたら、嫌な気分はしない。経営者は、雇用を維持し、なるべく高給を支払うことで、社会に貢献しているのだという自負と誇りを持つことができた。その喜びがあるからこそ、必死に雇用を守り、給料を支払おうと努力してきた。

労働者は雇用が守られ、賃金も上昇した。物価上昇の方が速かったりしたから楽なわけではないが、それでも一年また一年と、物価が上昇すると同時に給料も上がると期待することができた(中小企業はきつかったが)。富裕層や経営者が、労働者の生活改善に努力していることに一定の評価をしていた。

富裕層・経営者と、労働者とのウィンウィンの関係性が、戦後昭和にはかなりの程度、成り立っていたように思われる。「世界で最も成功した社会主義」と呼ばれたのもうなづける。村上春樹氏が描いたような「真綿でくるまれた息苦しさ」があったものの、物質的な豊かさを全国民的に味わうことができた。

しかし、90年代後半からこの関係性に揺らぎが生じ始める。「悪平等」という言葉が現れ始めた。頑張った人間が報われず、頑張っていない人間もそこそこの待遇を受けることができる日本の状況は、悪平等ではないか、と、自らを有能と考える人は、不平を鳴らし始めた。

ケインズ経済学の手法も、やや行き詰まりを見せ始めていた。土木工事に投資すれば経済が上向く、という成功体験が強すぎた日本は、投資が土木建築にばかり集中した。しかし過剰なまでに整備された道路をそれ以上作っても、投資効果(乗数効果)は現れにくくなっていた。

2000年代に入り、竹中平蔵氏が登場した。「立て板に水」のように弁舌巧みに、「富裕層を優遇すれば経済は上向く」と主張した。そして言い訳程度に「セーフティーネットを用意すればいい」と言いながらそちらは手当てせず、貧困層など放っておけばよい、という方向に政策誘導した。

竹中氏一人の力ではないが、竹中氏のつくった「空気」は、新自由主義的な政策を実現するのを容易にした。これにより、富裕層だけが稼ぐ社会構造へ、貧困層はますます貧困に、中間層まで貧困化する社会構造へとシフトしていった。これは、戦前の自由主義社会の状況と似通っている。

日本は「世界で最も成功した社会主義」であった余沢のおかげで、アメリカやイギリスほどには格差は拡大せずに済んでいるが、それをよいことに、竹中氏は「まだまだ悪平等」と主張。しかし貧困層は、ごはんにふりかけをかけるだけの食事を強いられるほどの貧窮に追いやられている。

こうした格差は、憎悪を生む。戦前、なぜ共産主義やナチスが力を得たのか、思い返すとよい。産業革命で資本家と経営者ばかりが大儲けし、労働者を長時間低賃金でこき使い、人間扱いしなかったことが、共産主義やナチスを受け入れる素地を作ったのだから。

富裕層と貧困層を分断し、「貧困層は足を引っ張るな、富裕層は好きなだけ儲けろ」という竹中氏の発言は、逆説的だが、共産主義やファシズムを生み出すのに適した環境を生み出す。富裕層への憎悪。これが共産主義やファシズムを生み出し、人気を博した原因なのだから。

そう考えると、竹中氏こそが共産主義やファシズムを生み出そうとしている張本人と見ることもできる。しかし、富裕層も国民。国民である人々を憎む心から生まれた社会制度は上手く機能しない。「敵」がいなくなった途端、動機を失ってしまうものだからだ。

私は、富裕層はその力でもって貧困層の生活を改善し、貧困層は労働でもってそれに報いる、というウィンウィンの関係性を取り戻すのがよいように思う。その意味では、ケインズ流修正資本主義はマイルドで、望ましいように考えている。土木建築に偏り過ぎた手法は改めねばならないが。

私は、情報産業に投資する形のケインズ流修正資本主義を目指してもよいように思う。そして、できる人間だけを優遇するのではなく、なるべくそこで雇用を求める。戦後昭和の経営者に、なるべく雇用を求めたのと同様に。

戦後昭和当時、三木首相は、景気が悪い中でも低い失業率で済んでいる日本のことを自慢していた。そのとき松下幸之助は、「いま、日本の会社は、みんな失業者を抱えとるのや、私どもでも一万人は遊んでいる」「ほんとういうたら日本でも300万人くらい、すぐ出ますえ。出してもよろしいか」

今の日本の経営者は、竹中流新自由主義の考え方に毒され、稼ぐ労働者だけほしい、そうでない人間はコストでしかない、と考え、雇用をなるべく絞る考え方をとるようになった。しかし、松下氏のこうした発言は、戦後昭和の経営者が、いかに雇用を重視していたかを物語る。

自由主義、新自由主義経済は、「生産」に思考の軸を置く。このため、生産に役に立たない人材はコストとみなし、排除しようとする。これが富裕層と貧困層の分断を生み、共産主義やファシズムを生み出す温床となった。しかしケインズ流修正資本主義では、「消費」に思考の軸足を置く。

ケインズの考え方を理解するには、自動車会社を創業したフォードのやり方が参考になる。当時、工場経営者はいかに労働者を安い賃金でこき使うかばかり考えていた。ところがフォードはその逆に、十分な賃金、8時間労働、週休二日という破格の待遇で労働者の待遇改善を図った。

この結果、熟練労働者が定着するようになり、不良品が減り、生産性が大幅に向上した。また、高給をもらった労働者が、自社の自動車を購入し、会社の売り上げに貢献した。労働者に熱く報いれば消費が増え、結果、会社も儲かることを実践で示した。

ケインズ経済学は、このフォード哲学を理論化したもの。「生産」に軸足を置く自由主義的な考えでは労働者は「コスト」になるが、「消費」に軸足を置くと、労働者は、「利益」をもたらす「お客さま」でもある。消費者は、どこかで働く労働者でもあるからだ。

労働者に賃上げで報いれば、労働者は消費者でもあるから、お金を使う。すると企業の業績が伸びる。すると従業員の給料が上がる。こうしたウィンウィンの関係が作れる、というのがケインズ流修正資本主義。これは、共産主義国よりもよほどうまく機能し、西側諸国が発展した原動力でもあった。

しかし、ソ連崩壊など共産主義国が軒並み崩壊する中で、西側諸国の富裕層は「もう共産化する心配はない、労働者に分配するのはやめて、丸儲けしてもいいんじゃないか」と考えだしたようだ。これが新自由主義を支持する言説を広める力となった。

しかし、新自由主義が行き過ぎた結果、富裕層と貧困層の格差は巨大になってしまった。日本で深刻なのは、貧困層が食うに食えないところにまで追い込まれたこと。特に母子家庭では、子どもに十分な食事を与えられず、親はご飯にふりかけだけ食べてしのぐ有様。生きるに生きられない状況となっている。

この状況に至ってもなお、竹中氏は貧困層のことを、ねたんでいるだけだ、足を引っ張るな、と主張する。竹中氏は、貧困層が富裕層を憎悪するように持っていきたいのではないか?と疑いたくなるほど。そしてそんな言説を繰り返せば、憎悪は自身に向かうのに、それに頓着しないかのよう。

竹中氏も、こうした発言を繰り返すのことの危険には気づいているはずだ。それでもこうした発言を繰り返すのは、そうした危険よりも危険な状況に彼がおかれているのかもしれない。そうした発言をしなければ危険な目に遭う、そんな状況に彼はおかれているのかもしれない。つまり、脅されているのかも。

ならば、彼を助けるためにも、富裕層と貧困層を分断に追いやる発言を取り合わず、「また言っとる、ほっとけほっとけ」という反応をしたほうがよいだろう。彼はああした発言をせざるを得ないのならそうさせてあげて、スルーしてあげる(余計な発言を続けたらその都度たしなめる)。そうすれば、彼は危険な目に遭わずに済むだろう。

2000年代に入ってから20年程で、富裕層と貧困層の格差は拡大し、それにより、国民の分断が進んだ。富裕層と貧困層の関係性が悪くなってしまった。しかし、この二つの層は、協力し合える、ということを忘れてはいけない。戦後昭和には、そうした関係を築けたのだということを思い出す必要がある。

富裕層が貧困層への分配に応じたら、投資に回すお金が無くなるじゃないか、という批判がある(竹中氏もそう主張)。ならば、戦後昭和の時のように、銀行による間接投資を活性化させればよいように思う。投資家による直接投資だけが投資ではない。やり方は他にもある。

なぜ日本は銀行による投資(間接投資)をやめ、投資家による直接投資の社会システムに変えたのか?それは、アメリカからイチャモンつけられ、アメリカの投資家も介入できるシステムに変えろ!と言われたからに他ならない。しかしそれにより、日本は主体的に経済を回す力を失いつつある。

直接投資を促すつもりが、海外資本による日本企業の虫食いが進みつつある。これ、本当に良いことなのだろうか?考え直してもよいように思う。
直接投資の余地を残してもいいが、銀行による間接投資の機能をもう一度再構築することは、投資を促す上で有効なように思う。

ともかく、今の日本の貧困の問題は、放置できないところにまで来ている。日常生活が牢獄の生活と変わらないか、むしろ悪いくらいになれば、法律を守る動機が失われる。犯罪を犯したほうがマシ、という社会になってしまう。法律が国民を守ろうとしないならば、法律は国民を縛る力を失ってしまう。

今こそ、富裕層と貧困層がウィンウィンの関係になるように。貧困層が中間層に移行し、生活を苦しまずに済むように。そうすれば、危険性は去る。竹中氏も危険な目に遭わずに済むだろう。彼はああした発言を続けるのはしゃーない。彼には彼の事情があるのだろう。でも彼を守るためにも。

彼の発言をスルーしてあげよう。そして、富裕層の力を貧困層の改善に生かそう。そうすることで、富裕層とそうでない人々との関係性をウィンウィンなものに回復しよう。関係性が改善すれば、富裕層は国民生活に寄与しているという誇りを持つことができる。

貧困層はやがて中間層に移り、労働と消費でもって経済を回すことに貢献する。その余沢が富裕層にも回り、豊かさを維持する。こうしたウィンウィンの関係を築きたい。富裕層の人たちには、どうかこうした社会の実現にご協力いただきたい。関係性を変えていこう!

富裕層、貧困層の「存在」ばかりを見つめると、「あいつら」呼ばわりする関係性に陥りがち。「どうせあいつらは」と「存在」を決めつけ、そこから動けなくなってしまう。しかし、関係性をデザインすれば、話が大きく変わってくる。富裕層は貧困層を救う力となり、貧困層は経済を動かす原動力となる。

存在に注目するのではなく、関係性に注目しよう。そして、どんな関係性をデザインすれば状況が変わるか、考えよう。日本経済を立て直すカギは、そこにあるように私は感じる。

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世界が共産化する恐怖に襲われる中、ケインズは、貧富の格差を当然視する自由主義でも、格差を全否定する共産主義でもない、第3のアイディアを提供した。
世界をアップデートさせた偉人たちの歴史をまとめた本。
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