楽しむ→観察→仮説→試行錯誤を楽しむの循環

私はもともと、「こうしたらいいのに、なぜそうしないんだ、愚か者め」と、自分の考えを押しつけ、それに従わない人を罵る人間だった。当然ながらトラブルだらけ。でも、自分にこそ正義あり、と信じ、相手を悪だと決めつけていたから、嫌われても平気だった。自分は「正義の味方」だから。

ところが「荘子」を読んだとき、目からウロコがとれた。そこには、包丁の語源になった庖丁(ほうてい)という料理人のエピソードが紹介されていた。庖丁は王様の目の前で牛一頭を丸ごと解体するショウを見せた。踊るかの如くスパスパと解体される様子に、王様仰天。

「さぞかしよく切れる包丁なのだろうな」と王様が尋ねると、「私は切りません。中途半端な料理人は切ろうとします。そのために刃が骨や筋に当たり、欠けてしまいます。何度も包丁を研がなければならないハメになります。しかし私は切りません。まず、よく観察します。」

「よく観察すると、次第にスジとスジの隙間が見えてきます。私はその隙間に刃先をそっと差し入れるだけです。すると、肉の塊はハラリと離れます。切りませんから刃先がこぼれることがなく、もう何年も研いでいません」

私がこのエピソードを読んだ時、「オレ、切ってばっかりやん!刃こぼれしまくってばかりやん!観察してないやん!」ということに気がついた。刃こぼれしても、悪いのは自分じゃない、変な筋や骨のつき方をしている牛が悪い、と言っているようなものだと気がついた。私は下手な料理人だった。

もう一つ、福永光司「荘子」(中央公論新書)の最後のところで、福永氏自身のエピソードが紹介されていた。福永氏が少年の頃、母親から「あの曲がりくねった木をまっすぐに見るには、どうしたらいい?」とナゾをかけられた。その木はどこからどう見ても曲がりくねっていた。

切った後、まっすぐに加工したらいい、なんて答えを期待する母親でもないし、ということで、考えた挙句、降参して答えを求めた。母親の答えは「そのまま眺めればいい」。私はこのエピソードに、またしても衝撃を受けた。それは、次のように私には思えたからだ。

私たちは、「まっすぐ」という言葉を聞いた途端、「まっすぐとはこういうものだ」という価値規準を心の中に抱いてしまう。こうなると、曲がっているものは曲がっているとしか見えなくなる。それ以外の情報がまったく感じられなくなってしまう。曲がった木は曲がっている。ただそれだけ。

しかしここであえて、心の中の価値規準を脇に置き、虚心坦懐にその曲がった木を眺めてみたら。樹液を吸いに虫が集まっている。木漏れ日が心地よい。葉擦れの音が風を教えてくれる。幹からいい香りがする。なんて力強い根だろう。あの折れた枝は去年の大雪のせいかな。五感を通じて膨大な情報が入る。

私たちは心に価値規準を持った途端「まっすぐ」か「曲がっている」かの2つしか情報を感じ取れなくなる。しかし価値規準を脇に置き、虚心坦懐に観察したら、五感を通じて膨大な情報が私たちの中に飛び込んでくる。母親の言った「そのまま眺めればいい」は、「素直に眺める」という意味だったのだろう。

観察するときに重要なこと。それは、価値規準を脇に置く、ということ。庖丁のエピソードに戻すと、普通の料理人は「牛の骨とスジはこう走っているはずである」と、すでに価値規準を自分の心の中に用意してしまっている。だから刃先が骨や筋に当たり、欠けてしまうのだろう。けれど。

庖丁はきっと、それまでにも何十、何百と牛を解体してきたのかもしれないけれど、その経験から生まれる「価値規準」でさえ脇に置き、まずは目の前に存在する一頭の牛を虚心坦懐に観察したのだろう。だからその牛独自のクセをも把握し、刃先が当たらずに解体することができたのだろう。

経験値は、たくさんあればあるほどよい、とされる。しかし、経験値が多ければ多いほど必ず能力が上がるかと言えば、そうでもない。「観察」せず、自分の心の中に価値規準を用意してしまっては、いくら経験を重ねても「見えども見えず」になってしまう恐れがある。

ナイチンゲールに次の言葉がある。
『経験をもたらすのは観察だけなのである。観察をしない女性が、50年あるいは60年病人のそばで過ごしたとしても、決して賢い人間にはならないであろう。』
ナイチンゲールのこの言葉に基づけば、体験と経験は異なる。体験をいくら積み重ねても、

観察しないならば、それは経験にならない。観察するには、福永少年のエピソードのように、まず心の中の価値規準を脇に置く必要がある。そうでないと観察はできず、経験は積み重ならない。もし価値規準を抱いてしまったら、それは「体験」でしかなく、「見れども見えず」になってしまう。

塾生を海に連れて行ったとき、一人の生徒が「何もないやん!ゲームセンターは?コンビニは?」と悲鳴を上げた。海で遊べばいいやん、と言ったら、その子はガックリと肩を落とし、持参した携帯ゲームや漫画雑誌を読んで時間を潰し始めた。ボーイスカウトを10年もやっていると聞いたのに、なぜ?

するとその父親が、大きなクルマからイス、机を取り出し、テレビをつけ、車内の冷蔵庫から冷えたビールを取り出して飲みだした。そして「自分も息子を連れてボーイスカウトをやってきた、自然のあるところに連れ回した」と語り始めた。今、目の前で起きている「自然を楽しんでいない」様子とギャップ。

話を聞くと、その父親は自然に対して関心がなく、早くキャンプ地についてお酒を飲むのを楽しみにしていたという。子どもが道中で虫や花に興味を持っても「自然の中では当たり前だよ、さあ先を急ごう」と言って、観察を楽しむゆとりを与えなかったという。そしてキャンプ地に着くと。

自分は酒を飲み始め、子どもには携帯ゲームや漫画を与えたのだという。自然は、日常生活の背景を変えるだけの「借景」でしかなかった。いつしか父親の影響を受けて、息子も自然を楽しむことを忘れ、人工物でしか楽しめなくなってしまったらしい。

ボーイスカウトの活動のせいではない証拠に、同じ団に所属し、ほぼ同じ年数を過ごしている別の子は、海に着いた途端釣りを始めたりヤドカリをむやみに集めたりキャンプファイヤーの準備をしたりと、思う存分海を楽しんでいた。どうやら観察には、「楽しむ」ことが大切であるらしい。

私は、子どもの発見や挑戦、工夫、成長などを楽しむことにしている。それらを楽しむと、自然と観察することになる。観察すると、子どもたちの様子がよく分かり、環境をどう整えるとよさそうか、仮説が自然と思い浮かぶ。「スジとスジの間の隙間」が見えてくる。そこにそっと刃先を差し入れるだけ。

だから、子育ては楽しむのが一番のように思う。子どもは日々変化する。昨日できなかったことが今日できたりする。その変化、差分を楽しんでいると、心の中の価値規準が自然と外れて、自然と観察するようになる。すると、「スジとスジの間の隙間」が見えて、どうすればよいか仮説が浮かぶ。

その仮説に従って行動してみると、だいたいうまくいく。
楽しむ→価値規準が外れる→自然と観察することに→仮説が思い浮かぶ→その通りにやってみる
という流れになる。だからまずは、子育てを楽しんでしまえばよいように思う。すると、後は自然と答えが見えてくる。

ところが、楽しむことを邪魔するいろんなものに私たちは縛られる。ああしたほうがいい、こうしたほうがいい、という価値規準。そうした価値規準に囚われると、その価値規準に沿わない子どもの実態に苛立ち、場合によっては子どもを罵り、ついには「あなたはこの程度の子」と見捨ててしまうことも。

ああすべき、こうすべき、ああであらねばならぬ、こうでなければならぬ、という「べき」論、「ねば」論などの価値規準は、私たちの心を固くし、観察眼を損ない、どうしたらよいかの仮説も思い浮かばず、「刃先がこぼれる」ことになる。事態はむしろ悪化する方向に進む。

私は、子育て本を書いたけど、「子育て本をうのみにしてはいけない」と書いた。子育て本は、観察するための着眼点を知るためのヒントに利用するのはいいけれど、書いてあることを正しいと考え、それを子どもに当てはめようとしたら、それは順序が逆だと指摘した。答えは必ず、目の前の子どもにある。

あああるべき、こうあるべき、ああであらねば、こうであらねばなどの「べき」論、「ねば」論をいったん脇に置き、目の前の子どもを虚心坦懐に観察する。観察するためにも、子どもと共に過ごすことを楽しむ。すると、自然とどうすればよいかの仮説が見えてくる。答えは目の前の子どもにある。

まずは楽しむこと。もし、楽しむに楽しめないのだとしたら、あなたに笑顔が失われているのだとしたら、きっとあなたは頑張っているのだと思う。頑張り過ぎているのだと思う。自分を責めないで!自分にもっと優しくして!自分を許して!そして、限りある身の自分のために、余裕をこじ開けて!

子育て中の母親は、すべての力を子どもに注ごうとしてしまうことがある。でも、人間は、休まなきゃ疲れてしまうし、時に他のことで気晴らしをしなければ心がもたなくなる生き物。もしあなたに笑顔が失われているのだとしたら、それは頑張り過ぎている証拠。

子育てでとても大切なこと。それは、親が笑顔でいること。笑顔を失うことにつながるのだとしたら、掃除も洗濯も料理も、手を抜きまくって構わない。笑顔でいられなくなるくらいなら、家事はしなくて構わない。そうして自分のために余裕をこじ開け、自分を休ませ、気晴らしを用意してやる必要がある。

親であるあなたが、まず笑顔でいられるようにすること。そのためには、父親が一緒に子育てすることが極めて重要。それについては以前まとめたことがある。
https://note.com/shinshinohara/n/neb020935f908?sub_rt=share_h

しかしこう書けば、ひとり親の方は心配するかもしれない。私が塾をやっているとき、ひとり親の子どもはどの子もしっかりしていて、親思いだった。親の頑張りをよく知っているからだろう。親を助けたいと強く思っている。だからひとり親でも心配いらない。むしろしっかりするくらい。

日本で人材を育てるためには、親が笑顔でいられること、そうした社会であることが必要だと思う。親だけの力でどうにかしろ、ではなく、社会の仕組みとして、親が笑顔でいられるように、そして子どもたちも笑顔でいられるように。そうしたことを考えていけたらと思う。

笑顔は、結果ではない。私は、すべてが好転させる出発点ではないかと考えている。笑顔でいられること、それによって子育てを楽しむこと、楽しむことで観察できるようにし、仮説が浮かぶようにし、試行錯誤を楽しめるようにする。そうした好循環が、どうか日本で生まれますように。

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