結果をほめるとつけあがることが、プロセスをほめると「頑張り無罪」になることが。ではどうすれば?

子育てでも部下育成でも、「ほめて育てる」本がかなり出ている。しかしほめると「つけあがる」という現象がしばしば起き、まるで勉強しなくなったり働かなくなったりする。ほめる言葉は子どもや部下のやる気を高めるどころかますます動かなくなる原因になったりする。これはなぜなのだろうか?

「100点ばっかりなんてすごいね」と、結果ばかりほめたり、「営業成績トップなんてすごいね」と成績はかりほめたりすると、逆にやる気を見せず、動かなくなることがある。これはおそらく、不安になるからだろう。今回はたまたま100点が続いた。今回はたまたま大口顧客が大量買いしてくれた。でも次は?

同じ結果を続ける自信がない。なのにほめてくれる人がいて、同じ結果、成果を期待されている。けれど同じ結果を出す自信がない。そんなとき、「オレはやればできるけど今はやらない」という論理武装して逃げ込む。幸い、これまでの成績が実力を示してくれる。ほめ言葉で言質もとっている。

お前はやればできるんだ!という言葉に対し、そうさ、オレはやればできるんだ、でも今はやる気がしないからやらないんだ、に逃げ込む。内心は同じ結果を出せないかもという不安があるのだけど。挑戦したら同じ結果を出せず、無能を証明してしまうかもしれない。それが怖い。

同じ結果はもう出せないかもしれない、そしたら自分の無能を証明してしまう。そのくらいなら、能力の高さを実証した過去の成績をタテにとり、ほめ言葉を言質にとり、「やればできる、でも今はやらない」という論理に逃げ込んだ方が確実に弱い自分の心を守れる、という算段が立つ。そこに逃げてしまう。

つけあがっている状態は一見、傲慢にふんぞり返っているように見える。けれど、内心は自分の才能を不安に思い、結果を出せないかもと弱気になっている。それを傲慢な、才能に自信があるフリをするという仮面を被り、内心のナイーブで傷つきやすい面を守ろうとしているのかもしれない。

結果をほめると、そういうことがまま起きる。では、結果ではなくプロセスをほめる、という昨今よく推奨されている方法はどうだろうか。私の体験では、「頑張り無罪」に落ち込むことが少なくない。十年一日な、同じことを繰り返し、それに汗まみれにさえなれば「プロセス頑張ってる、だから無罪」。

しかし何の工夫もないから進歩もない。成果は同じものしか出ない。プロセスをほめると、プロセスだけ頑張り、結果には目をつむるという、まるでハツカネズミがクルマをクルクル回して「ふう、今日も走ったぜい」と言ってるようなことになりかねない。

結果をほめるのも、プロセスをほめるのも、どうもうまくいかないケースがある。そもそも、「ほめる」という手段自体に問題があるのでは?と感じていた。
ではどうすればよいのか?アドラーは「ほめるな」と言ってるけれど、それはただの不干渉主義に陥りかねない。もっと有効な関わり方はないか?

結果的に言語化したのが、工夫、発見、挑戦、努力、苦労に驚き、面白がる、だった。特に最初の3つが大切だと感じている。
工夫、発見、挑戦に驚き、面白がる人がいると、今度はもっと面白い工夫、発見、挑戦で驚かそうとワクワクする楽しいからのめり込む。のめり込むけど同じところにとどまらない。

工夫、発見、挑戦は、同じところにとどまっていてはできないから。新たな領域を探してズンズカ進む。そのための努力や苦労を厭わなくなる。そのことに驚き、面白がると、さらにのめり込む。

工夫、発見、挑戦に驚き、面白がること、工夫のために努力を惜しまず、苦労を厭わないことに驚き、面白がる人が一人いると、思わずハッスルしてしまうものらしい。もし指導する側の人間がひとり、そういう役回りを果たせば、周囲はやる気に満ち、工夫を重ね、発見に相次ぎ、挑戦をやめないように思う。

その際、大切なことは結果を一切期待しないこと。「ほめる」に副作用があるのは恐らく、結果でなくプロセスをほめるにしろ、やはり結果や成果を求めている魂胆が透けて見えてしまうからかもしれない。そのため、ほめられる側は結果を出すことに嫌気がさすのかもしれない。

ただひたすら、工夫や発見、挑戦する様子に驚き、面白がっていれば、一切結果を期待していなくても必ず結果を伴う。だって、工夫や発見、挑戦を続けているんだから。それを嬉々として続けているんだから。結果が出ないはずがない。少なくとも、イヤイヤ結果を出そうとする人間より早く結果が出る。

楽しんでるので、工夫、発見、挑戦の密度が違う。だから結果を出すのも最速。工夫、発見、挑戦に驚き、面白がることは、それらを最速にし、高密度にすることを促すから、結果的に結果も伴う。結果を期待しないのに。

だから、結果なんて気にせず、工夫、発見、挑戦に驚き、面白がればよいように思う。そのための努力や苦労を厭わない姿に驚き、面白がればよいのだと思う。すると、工夫、発見、挑戦を楽しむようになる。すると工夫はますます高度化し、発見の頻度が高くなり、挑戦する勇気も湧いてくる。

指導する側は、その様子に驚き、面白がるだけ。それだけで、人は変わっていくように思う。

なお、知人は「驚くなんていうオーバーリアクションは必要ないんじゃない?差分に気づく、で十分なのでは?」と指摘。これはそのとおりと思う。驚く、というと、どうしても大げさに驚くことをイメージしてしまう。そこまででなくても、昨日と今日の差分に気づきさえすれば十分。

差分に気づくには、昨日と今日の違いに気づく必要がある。つまり、普段から観察している必要がある。観察しているから変化、差分に気づくことができる。差分に気づきさえすれば、「見てくれていた」とわかり、嬉しくなる。また新しい自分に気づいてもらおうと工夫や発見、挑戦を続ける。

「驚く」までいかない変化は、差分に気づく、で十分。芝居がかったような「驚く」が苦手な人は、これで十分。ただ、「驚く」のは結構盛り上がって楽しい。驚くに値するのは驚くとよいと思う。見てる方も楽しくなるから。

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