「わかりにくさ」と「言葉の難しさ」は別問題

哲学思想は一般に難しいと思われている。その原因に、言葉遣いの難しさがある。形相とか形而上とか実存だとか、日常会話でまず出てこない単語がわんさか出てくる。単語が難しいだけじゃなくて、言い回しも硬い。ダイヤモンドのように硬い。頑張って読もうとするとまぶたが重くなる。

その難しさが魅力に映った時代がかつてあった。なんか難しそうな言葉を一つ覚えると、一つ賢くなった気がして、会話の中に混ぜて教養のあるところをチラつかせたり。難しい言葉をたくさん言うと賢そうに見えたり。そのメリットがあるから、哲学思想は難しいままに放置されてきた面がある。

でも、SNSの登場でガラリと様相が変わってしまったように思う。専門家にしかわからない言葉は全く広がりを持たない。他方、SNSでは、専門家はだしの深い専門知識を持ちながら、それを分かりやすく解説する力量のある人がワンサカ登場した。「難しい言葉」がおいてけぼり感出てきた。

他方、「わかりやすさ」に批判的な声を聞くようにもなった。理解が困難なものを分かった気にさせることの危険性を指摘。それはその通りだと思う。理解するのにとても時間がかかるものがある。体験の蓄積がなければ理解不能なこともたくさんある。なのにそれらを分かった気になるのは確かに危険。

ただし。「わかりにくさ」と「言葉の難しさ」は分けて考えたほうがよいように思う。理解するのに時間と経験が必要なものは確かにある。しかし理解するのが困難だからと言って、説明する言葉も難しくてかまわない、ということにはならないと思う。なんでわざわざ難しさを2乗にする必要があるのか。

私の説明はわかりやすいと言っていただけることが多い。しかし、決して分かりやすい事柄を扱っているわけではない。言葉にできているようで全然言語化ができていない事柄を扱うことが多い。言語化できていなかったということは、やはり「わかりにくい」事柄だから、できていなかったのだと思う。

そうでなくても「わかりにくい」のに、説明する言葉まで難しくなったら、そこにたどり着ける人がグンと減ってしまう。私はそれ、もったいないと思っている。どうせなら「わかりにくい」の正体を突き止める人が増えるよう、分かりやすい言葉で考えたらよいのだと思う。

言葉が難しいために「わかりにくい」なのだと勘違いしてしまうことが非常に多い。「絶対値」という言葉を最初聞いた時、私は全然わからなかった。「ゼロからの距離」と聞けばわかりやすかったのに、なんでそう説明してくれなかったんだろう?と思う。自分の言葉で言語化してようやく理解できた。

専門用語や難しい言葉遣いは、わかりやすいものさえ理解するのを難しくしてしまっている感がある。ならば、もっと平易な表現を心がけたほうがよいように思う。また、「わかりにくい」事柄も、ことさらに難しい言葉遣いをやめ、理解しやすい言葉遣いで説明を試みたほうがよいように思う。

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