レヴィ・ストロースとモンテーニュ

大学の文化人類学の講義で、レヴィ・ストロースのことを知った。それまで、欧米人が白人だけを優秀な種族と考え、その他の民族を見下しがちな中で、ストロースは違った。「未開の民族」と表現され、蔑まれていたような種族にも、豊かな文化と深い哲学が息づいてることを発見し、世界に知らしめた。


ストロースは構造主義という哲学・思想を提唱したことでも知られる。自分から見て非常に変わった風習を持つと感じると、人は「野蛮」「未開」とみなしてきたけれど、ストロースは、それぞれの民族には、それとははっきり見えない「構造」があって、その構造の中で文化や風習が形成されていると捉えた。


この構造主義は、それぞれの民族がなぜそんな風習を持つのか、なぜその「構造」の中ではそれなりの正当性が認められるのかを理解できるとして、世界に大きな影響を与えた。ストロースは拙著「世界をアップデートする方法」では取り上げなかったけど、非常に重要な人物。


ストロースが異民族に向ける敬意と理解は、私にはなぜか懐かしいものに思えた。高校生の頃に読んだモンテーニュによく似ている、と感じていたからだ。

モンテーニュは、デカルトやルソー、ニーチェなどに多大な影響を与えたであろうとされる人物。日本ではあまり注目されることがないけど。


モンテーニュは、私が最初に読んだ思想書でもある。その著書「随想録」には、様々な民族の話が描かれている。大航海時代を経て、様々な民族の「奇習」の情報が西欧に流れ込んできていた。当時の西欧人は「キリスト教を知らない連中はやっぱり野蛮だね」と肩をすくめてバカにしていた時代だった。


しかしモンテーニュは、「彼らには彼らなりの正当性がある」と考えた。それを実に見事に活写している。

西欧人がある国の王様に謁見すると、王様は手鼻をかんだ。鼻水を手のひらに出した。西欧人は「汚い」と言ってバカにした。そしたら王様「ではお前たちはどうやって鼻をかむのだ」と訊いた。


西欧人は「絹のハンカチで上品に鼻をかみます」と答えた。すると王様は「鼻水ごときに高級品の絹のハンカチを使うお前たちのほうがどうかしてる」と答えたという。値打ちのないものにさほどの投資をしなくてよいという価値観、「構造」が短い言葉から読み取れる。


モンテーニュには他にもエピソードが。人食い人種がいて、亡くなった人の肉を食べていた。西欧人が「なんて野蛮な」と批判したら、「ではお前たちは死んだ者たちをどう弔うのだ」と聞かれた。西欧人は「木の棺桶に遺体を入れて、恭しく土の中に埋葬する」と答えた。すると人食い人種のその人物は。


「大切な人の肉をうじ虫どもに食べさせるお前たちのほうが、死んだ者に対する敬意が欠けているのではないか」と答えたという。

人食い人種と呼ばれた人たちは、食事として食べていたのではなく、亡くなった人を大切に思えばこそ、うじ虫たちに食べさせるくらいなら、と、最上級の弔いをしていた。


また、「随想録」にはサラセン人(イスラム教を信じる人たちの総称)の英雄、サラディンがよく登場する。西欧人にとって、キリスト教を信じないサラセン人は野蛮人そのものだった。だから「エルサレム奪回」を目指した十字軍では、ためらいなくサラセン人たちを皆殺しにした。


また、西欧人は捕虜にとったサラセン人を盾に身代金を要求したりした。

ところがサラディンは、軍を率いて西欧人に対して勇敢に戦って勝ちをおさめ、捕虜としてキリスト教徒を捕まえても、身代金もとらずに釈放する寛大さを示し、西欧人を感心させた。


果たしてどちらが野蛮人なのか?もしかしたら、キリスト教を奉じる我々西欧人のほうがよほど野蛮なのではないか?という視点を、モンテーニュは提供した。こうした卓抜した柔軟な思考が、デカルトやルソー、ニーチェなどに影響を与えることになったのだろう。


当時の西欧人は、キリスト教徒である自分たちが一番の文化的存在、他の地域の連中は野蛮人で未開人、と見下していたのに、なぜモンテーニュは当時の「常識」から抜け出すことができたのだろう?それには、モンテーニュの生い立ちが深く影響しているように思う。


モンテーニュの母は、スペイン出身の、キリスト教に改宗した元ユダヤ教徒だったという。スペイン(イベリア半島)は長らくイスラム教徒たちに支配され、そこではユダヤ教徒やキリスト教徒が比較的仲良く暮らしていた。しかしキリスト教徒達がイベリア半島を取り戻そうと、国土回復運動(レコンキスタ)を起こした。


そしてレコンキスタが終わり、スペインやポルトガルによる半島の支配が完了すると、キリスト教徒達によるユダヤ教徒の迫害が始まり、キリスト教への改宗を迫られた。モンテーニュの母親は、そうした迫害から逃れてきた元ユダヤ教徒の一人であったらしい。


しかしスペインは、長らくイスラム教徒とユダヤ教徒とキリスト教徒らがそれなりに仲良く交流し、多様性を保ちながら過ごしてきた社会でもあった。異なる風習を持つ人々への寛容さの大切さを、キリスト教徒から迫害されたがゆえにモンテーニュの母親は痛感していたのかもしれない。


また、モンテーニュは幼少の頃、実の両親ではなく近隣の農家のもとで育てられた。父親の方針で、様々な職業の人たちの生活を知っておくことは、領主として仕事をするうえで非常に重要だと考えていたからだ。モンテーニュが身分の貴賤に囚われない自由さを発揮するのはここからきているのかもしれない。


「随想録」が、異民族への敬意と理解にあふれているのは、モンテーニュのそうした生い立ちが深く関係しているのだろう。だからモンテーニュは当時のキリスト教徒達が持っていた常識(非キリスト教徒をバカにする)に囚われることがなかったのだろう。


そうした「随想録」の内容を知っていた私は、ストロースの研究を知ったとき、「モンテーニュによく似ているなあ」と思っていた。ところが最近、モンテーニュの解説書を読んでいたら「レヴィ・ストロースは「随想録」を愛読書にしていた」とあった。あ、なるほど、だからか!


構造主義の生みの親であるレヴィ・ストロースは、恐らくモンテーニュの「随想録」から多くのヒントを得ている。多様性の重要さを世界の人々に知らしめた構造主義の種子は、モンテーニュが示していたといってよいだろう。


そう考えていくと、モンテーニュはとんでもない人物だったように思う。

近代合理主義の生みの親であるデカルトは、研究者達によるとモンテーニュの影響を受けたと見られているらしい。モンテーニュの自由な発想が、合理主義を提唱するうえで大きな力になったのかもしれない。


また、教育学を創始することになったルソーもまた、モンテーニュの影響を強く受けているようだ、と言われている。その著書「エミール」で見せる子育ての方針は、モンテーニュが父親から受けた教育を彷彿とさせるものがある。子どもの発達に即した接し方をするという点で、非常によく似ている。


ルソーは教育学を創始するにあたって、モンテーニュの「随想録」をヒントにした可能性がある。

また、ニーチェも、「随想録」を愛読していたのではないかと言われている。モンテーニュは、キリスト教もイスラム教も異国の文化も、同じ地平で捉える大胆な描き方をしている。


そうした自由さをモンテーニュから学んだからこそ、それまでの哲学者が決して言えなかった言葉「神は死んだ」を口に出すことができたのだろう。

モンテーニュは、デカルト、ルソー、ニーチェ、ストロースなど、単独だけでも世界観をアップデートした人たちに「種子」を渡した人物と言える。


その意味で、モンテーニュは世界史にとてつもない影響を与え続けた人物だと言ってよいだろう。もしかしたら、「随想録(エセー)」は、現代人にとっても画期的なアイディアを汲み取れる源泉になるかもしれない。日本人も、この際、モンテーニュを読み直してもよいかもしれない。

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